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みことばを正しく聞く


2022年9月4日 メッセージ要約

ルカの福音書8章4~15節 *1

神のみことばを宣べ伝えるよりもさらに困難なことがあります。それは、みことばを正しく聞くことであり、実行することです。イエスさまは8節で「聞く耳のある者は聞きなさい。」と意味深いことを言われました。また、18節では「聞き方に注意しなさい。」とも言っておられます。ヤコブは「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。」(ヤコブ1:22)と語っています。


イエスさまは種蒔きのたとえ話でこの点について語っておられます。イエスさまは多くのたとえをお語りになりましたが、それは重要な霊的真理を伝えるために、日常生活でだれもがよく知っている事柄を通して、霊的な真理を教えようとされたのです。今日のこのたとえ話では、「種は神のことば」(11)を意味しています。そこでこのたとえ話をとおしてみことばを正しく聞くことの大切さ学びたいと思います。



第一 踏みつけられた心

5節をお読みします。イエスさまは「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。」と言われました。種蒔きが種を蒔くときに道ばたに落ちる種もあるのですが、そこは、種を受け入れるやわらかい土がありませんから、まもなく、鳥がやってきて種をつまみ上げ食べてしまうのです。このことについて、イエスさまは12節で、「道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。」と説明されています。


イエスさまは、みことばを聞く人たちの中のある人の心は固く踏みつけられた道ばたに似ていて、みことばを聞くのですが、救われないように、悪魔によって心からみことばを奪い取られる人たちのことであると言われました。この人たちの心というのは、みことばを聞いても、読んでも、それがその人の心の中に入ってこない人たちです。少し前の時代までは、読んだ本だとか、学校で教えられたこととか(進化論)、育った家庭のため、たとえば「キリスト教は外国の宗教である」と教えられ、その人の心を固く閉ざしてしまって、神のことばが心に入りませんでした。


ところが、現代はそれだけではありません。現代はあらゆる情報が人々の心に入り込む情報社会です。新聞、テレビ、スマートホン、パソコン、映画、演劇、音楽会、週刊誌、雑誌などを通じていろいろな情報が入り込んできます。本当はどの情報が必要なのか選択しければならないのですが、私たちは、いろいろなマスメディアを避けることができなくなっているのです。それらのものに対して人々の心は受け身になっていて、大きな影響を受けています。そのため、人の心が多くの情報によって踏みつけられ、固い心になっていて神のみことばを受け入れなくなっているのです。



第二 短命な信仰

6節をお読みします。イエスさまは「また、別の種は岩の上に落ちた。成長したが、水分がなかったので枯れてしまった。」と言われました。イエスさまが言われた意味は、土のない石地のような心を持っている人のことを言われたのです。そういう人たちについて、イエスさまは13節で、「岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです」と説明されています。信仰生活において十分に信仰の根を張ることは大切なことです。ルカの福音書6章48節を開いてください。「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。」と試練に耐え乗り越えるためには「地面を深く掘り下げる」ことです。そのように信仰の根を十分に張る秘訣は深く掘ることにあります。そうすれば信仰の試練のときでもすぐ信仰を捨てることはないのです。


植物というものは、地上で大きな枝を張っている木ほど、それ相応の根を地中深く張っているものです。私が以前奉仕していた東北の郡山の教会の道路の向こうは県立高校でした。十メートル以上もある落葉樹が10本以上ありました。ところが秋の終りの落葉で近くの人から苦情が出て、高校では10本の大木を全部抜いて、常緑樹に植え替えることになりました。そのとき、根が深く大変で、費用も600万円と聞きました。


信仰生活というものは、救われた喜びをいかに持続するかということにありますが、それには、信仰の根をいかに深く張るかということにあります。信じたときの喜びが長続きするためには、そうした聖なる努力が必要です。その秘訣は、➀みことばを自分の霊の食物として毎日読むこと、②神との交わりである祈りを毎日すること、③霊的運動である信仰の証しをすること、④神への服従、具体的にはみことばを生活に適用して神に従うこと、⑤教会生活をすることです。


赤ちゃんが健全に成長できる場は家庭です。そこには父と母、兄弟などがいて成長するように、救われた霊的赤ちゃんであるクリスチャンが健全に成長していくことのできる霊的家庭、それが教会であり、そこにつながり続けることです。



第三 ふさがれた信仰

7節に、「また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。」とあります。茨は、種から目を出した穀物と一緒に育ちます。たぶん、はじめのうちはそれほど成長に違いはないように思えます。ところが茨の方の成長が早く大きくなり、穀物のやわらかい芽を全部ふさいでしまったのです。このことについて、イエスさまは14節で「茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれて、生活おける思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実を熟するまでになりません。」(14)と説明しておられます。


私たちはクリスチャンとしてこの世で信仰生活を送っています。それで、この世を支配しているいろいろな情報や出来事や営みが私たちの生活に影響力をもって働いてきます。ですから、その影響力に感化されて、この世の常識や自分の経験や知識でものを考えようとしがちです。信仰とは非常識でよいと言うわけではありませんが、みことばによって主にしっかり結びついていないと、成長して実を結ぶことができないのです。


「茨の中」というのは、多くのものに支配され過ぎている心のことです。これはIT革命による様々な機器や機械、情報やことばや物の溢れた日本の現状のようです。その情報、他への関心が強すぎて聖書が読まれなくなり神への信仰が薄らいでしまうのです。主を信じる信仰に立って、自分はクリスチャンであるとの思いの中で生活を始めます。しかし、同時に、私たちは生まれながらの性質も持っていますから、この世の生き方、情報に染まり流されて生きってしまうのです。どうしても目に見える確かさを求めるのです。そのため、「生活の心づかいや富や快楽」というその場限りのものに心を奪われて、神に向く心を妨げられてしまいます。


みことばの力について、ヤコブの手紙1章21節、22節を開いて見ましょう。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れないさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」。神に心を向けるのを妨げることから守る方法はみことばを素直に信じることです。


第四 みことばを正しく聞く信仰

8節をお読みします。「また、別の種は良い地に落ち、成長して百倍の実を結んだ」(8)と言われました。このことについて、15節でこう説明されました。「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。」


ここで実を結ぶ秘訣についてイエスさまは二つのことを言われました。一つは「立派な良い心」です。それは先入観や偏見を持たず、謙遜で、素直な心で、感動すべきものには素直に感動する幼子のような心で聞くということです。


二つ目は「しっかり守り、耐え忍ぶ」ことが良い地であるとイエスさまはおっしゃいました。この「しっかり守る」には、「しっかり握りしめる」ということばが使われています。「カテコー」ということばですが、「どんなことがあっても離さない」という意味です。ここでは、確信を持ってみことばを受け入れたら、それを離さないで、心の中にいつも蓄えておくのが「良い地」であると言われているのです(コロサイ3:16)。


そして、心がしっかりとみことばを捕らえていくためには「忍耐」が必要だと教えておられます。種を蒔いてから、その種から芽が出て、大きくなって花が咲き、実を結ぶまでには忍耐が必要です。芽が出て花が咲き、実が実るまでに時間がかかります。みことばが私たちの心の中で保たれて実を結ぶために、御霊の助けの中で忍耐することです。そうすれば必ず実を結びます。


かつて軽井沢で、宣教師が牛乳運搬車にひかれたことがありました。苦しい息の下から彼が、うろたえる牛乳配達の青年に言ったことばは、「牛乳がくさるといけないから早く行きたまえ。私は一足先に天国へ……」でした。作家の正宗白鳥は病床にあって、このことばを聞いて非常に感動を受けたそうです。まじめな懐疑論者として生きてきた彼も、これほど鮮やかな腰砕けにならない望みに圧倒されたようです。やがて、彼は丁重に牧師を自宅に招き、謙虚にキリストを救い主として受け入れ、素直に罪を告白しました。病床で洗礼を受けた彼は晴れ晴れと顔を輝かせて言ったそうです。「私は幼子のように単純になりました。」まことに、不幸は複雑なものですが、幸福は単純信仰にあります。


人の心が多くの情報によって踏みつけられやすい時代、信じた信仰を持続するのが難しい時代、生活の心づかいや富や快楽で神に心を向けることの妨げられる時代に生きています。その中で、「「イエス・キリストは、昨日も今日も変わることはありません。」(へブル13:8)といわれる永遠不変なる神さまです。また、「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神」(ローマ4:17)、すなわち、ひとり子の死と復活に現された全能にして愛なる神さまです。その主が「天地は消え去ります。しかし、わたしのことば決して消え去ることはありません」(ルカ21:33)宣言しておられます。


祈りの生活の中で御霊によって、その絶対信頼できる神のことばを先入観や偏見を持たず、謙遜で、素直な幼子のような心でみことばを正しく聞く生活を貫かせていただきましょう。みことば信仰、そこに実を結ぶ恵みと祝福と神の栄光を現す生涯が約束されています。



*1 ルカの福音書8章4~15節

8:4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。

8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。

8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。

8:7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。

8:8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれた。

8:9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。

8:10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。

8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。

8:12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。

8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

8:14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。

8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

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