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ティべリア湖の岸辺に立つイエス


2022年4月24日 メッセージ要約  

ヨハネの福音書 21章1~14節 *1

ヨハネの福音書は本来ならば20章で終わるはずでしたが、21章が記されています。バックストン先生も「ヨハネの福音書は20章で終わると思います。21章は付録です。けれども、この付録は非常に大切です。」と言っておられます。その理由は、やがてイエスさまは天にお帰りになり、弟子たちだけが地上に残されます。そのため、弟子たちがイエスさまは十字架にかかられましたが復活され生きておられる救い主であるとの信仰に立って大胆に十字架と復活の福音を伝えてほしいとのイエスさまの思いをヨハネは念を押して書いたのです。そこで3つのことをお話しします。


第1 愛と同情と慰めをもって立たれるイエス

弟子たちはイエスさまの将来に期待して3年間余り、イエスの弟子として寝食を共にしながら過ごして来ました。ところが、その頼みにしていた主があり得ないのろいの十字架にかかられ死なれたのです。そのため、不安の中にあると同時に、イエスを裏切った後味の悪さにも悩んでいました。ですから、弟子たちはどう生きて行ったらいったらよいのか途方に暮れていたと思います。ところが、復活された主が女性たちにお会いになり、「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」(マタイ28:10)と語られたのです。


それを信じてペテロをはじめ7人の弟子たちがガリラヤ湖の別名であるティベリア湖に来たのです。ところがイエスはガリラヤで待っている弟子たちにご自身を現されませんでした。そこで、ペテロは「私は漁に行く」(3)と言うと他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」(3)と舟に乗って出かけました。ペテロたちはもしイエスが来られない場合は、しばらく漁をしながら生活し、そのうちに将来のことを決めようと思っていたのかもしれません。いずれにしても気乗りしない漁でした。


彼らの中の数人は経験豊富な元漁師でしたが、「その夜は何も捕れなかった」(3)のです。どうしてでしょうか。神の摂理のためと言うほかありません。というのはイエスが弟子たちに深く関わるために神がこのように導かれたということです。弟子たちはこのことを通して自分の無能無力を知り、キリストに全く依り頼まなければならないことを学ぶために、神はこのように導かれたのです。


ところが、夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立っておられました。けれども、弟子たちには、それがイエスであることが分かりませんでした。町の人が魚を買いにくる習慣があったので、その人かと思ったのかも知れません。すると、「イエスは彼らに言われた。『子どもたちよ、食べる魚がありませね。』彼らは答えた。『ありません。』(5)「子どもたちよ」とは親しみと愛と同情に満ち溢れたことばです。その上で「食べる魚がありませね。」と、つまり、「夜通し一生懸命漁をしましたが、疲れたでしょう。収穫はありましたか」と慰めやさしく語りかけられたのです。


イエスが宣教でナザレに行かれたとき、ルカはこう言っています。「彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆した」(ルカ4:22)と。そのように弟子たちも、この恵みにあふれることばに感嘆したでしょう。復活され生きておられる主はいつも「夜明けの岸辺に立っておられるのです。」岸辺に立たれたイエスは弟子たちの苦境をご覧になられて最初に語られたことばは愛と同情と慰めの言葉でした。 


過去20年間に9回癌の手術を受けられた60代の前半姉妹を知っています。その9回目の手術をこの3月10日(木)に受けられこの17日(日)退院されました。その姉妹がメールをくださいました。「主の恵みのもと私は次の日曜日に退院できることとなりました。体が一番辛かった時も主が共にいてくださったことをまた一回体験に加えていただくことができました。感謝でございます。」


私たちも人生において行き詰まり、逆境、暗黒の中に置かれることがあります。そのようなときでも復活されて生きておられるイエスがそこに立っておられます。そのイエスが、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる」(詩篇50:15)、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(へブル13:5)と約束してくださっています。私たちはいついかなるときでも親しみと愛と同情と慰めに満ちたイエスさまを仰ぎ信じて日々歩ませていただきましょう。


第二 みことばをもって導かれるイエス

夜通し漁をしたけれども何も捕れなくて、焦りと疲れで茫然としている弟子たちに主がやさしい言葉をおかけになりました。弟子たちの心はなごんだのでしょう。実に素直に「ありません」と答えました。すると、イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」(6)と命じられたのです。聖書では右は神の側を表し、左と言うのは、人の側を指すのです。漁に関しては、彼らはベテランでした。しかし、彼らは岸辺に立つ人のことばに従って、網を右側に下ろしてみました。すると、おびただしい数の魚のため、もはや彼らは網を引き上げることができなかったのです。


この弟子たち7人のうち少なくとも4人はかつて魚を捕る漁師たちでしたが、この奇跡はイエスが「人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ1:17)と彼らが伝道者に召されたときのイエスのことばを感動もって鮮やかに思い起こしたでしょう。

考えてみますと神を信じる者と言ってはいますが、私たちもしばしば自分の考え、判断、努力だけで日々を歩み、人生を築こうとしていないでしょうか。また、主のためにやってきたことがないでしょうか。特に、教会を建て上げていくために、伝道のために、愛と品性の実を結ぶためにと言いつつ、自分の考え、判断、努力だけでやってきたことはないでしょうか。ところが弟子たちが漁をして魚が大量に捕れたのは、主のみことばに全く従った結果でした。主のために実を結ぶ秘訣はみことばに聞くことであり従うことにあります。


あの空を飛ぶ飛行機ですが、飛行機には大きさにかかわらず必ず二つの計器があるそうです。一つはラジオコンパスで、もう一つは水平線を表示する人工水平儀です。この計器は飛行機が上昇しているか、下降しているかを教えてくれるのです。実は飛行中に人間の身体は「上」とか「下」とかを判断する機能がないのです。ですから雲の中に入ってしまえば、身体の感覚は上昇していても、計器を見たら、実際には下降していることがあるのです。ですから、パイロットは人工水平儀なしには飛行機をコントロールできないのです。ところが神さまに創造された人間が自分の人生じゃないか、自分でコントロールできる、神さまも人も必要ないと高をくくって生きているのです。その結果、迷いと永遠の滅びの人生を歩んでいることを知らないのです。


それについてエレミヤは「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その道を確かにすることも、人によるのではないことを。」(エレミヤ10:23)ですから、何をさしおいても、私の人生に必要なのは主の導きです。私は主が必要なのは、私を救って、罪を赦していただくにとどまらず、人生のすべての時をともにしていただくためなのです。毎日のすべての瞬間です。神とのつながりを失うなら、人は道に迷います。イエスが、「わたしは道である」(ヨハネ14:6)と言われた通りです。


イエスは元漁師の弟子たちの不漁を確認して「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」(6)と命じられたのです。すると、「おびただしい数の魚」が捕れたのです。このことから、私たちだれ一人として、人生の歩みを、自分の力で確かにすることができないことを示し、唯一の確かな人生は、神のみことばに聞き従うことであることをお教えになったのです。聖書は私たちがどうあるべきか、いかに生きるべきかを教えてくれます。実を結び、神のみわざを見るために、日々、神との交わり、みことばに聴き従って歩みましょう。


第三 必要を満たしてくださるイエス

弟子たちはイエスが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」とのお声に従って網をおろしますと、魚がたくさん捕れて、網を引き揚げることができませんでした。イエスの愛しておられた弟子、ヨハネは夜明けの岸に立って、そのようなみわざをなさったのはイエスであることが分かり、ペテロに「主だ」と言いました。するとペテロは裸に近かったのですが上着をまとい海に飛び込み岸に向かいました。弟子たちは、イエスが岸辺に立っておられるのが分かると、陸地に上がってきました。そこには炭火とその上に魚が載せられていて、パンもありました。何と驚くべきことでしょう。イエスが弟子たちのために朝食を準備されたのです。「おびただしい魚」が獲れたことが、この出来事の第一の奇跡とするならば、この朝食の準備は、第二の奇跡と言えるでしょう。不思議な食事の準備です。


すると、イエスは「今捕った魚を何匹か持ってきなさい」(10)と命じられ、弟子たちに「さあ、朝の食事をしなさい」(12)と言われ、「パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた」(13)のです。この出来事は、主が私たちの必要を一切満たしてくださるいのちの主を象徴しているのです。いのちの源は主ご自身にあるということです。


詩篇23篇6節で「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。」と歌われています。私は自分の生涯を顧みてさまざまなことがありましたが、そのときそのときに、数えきれないほどの「恵み」が与えられそれによって生かされてきました。また「いつくしみと恵みが、私を追い続ける」とは羊飼いが手を広げて、羊を次から次へと新しい緑の牧場に追って行く様子を描いているのです。「私を追い続ける」とは神がご自分の約束を実現するための誠実さを現します。私が神を忘れても、神は私を忘れられることはありませんでした。その結果として、今の主にある満ち足りた私の日々があるのです。


しかし、現代の多くの人々は恐怖と不安と不確かさに追われるようにして生きているのではないでしょうか。今日の日本社会を見れば、多くの人がスマートフォンを見つめ、「考える」のではなく刹那的に「感じる」、また、すぐに消え行くことばの氾濫に左右されているのではないでしょうか。物事の変化が速く、自分の価値観やスキルがいつまで通用するのか誰もが不安な中にいます。特にコロナウイルスやウクライナの戦争がそれに拍車をかけています。


そうです。死と悪魔に勝利された復活のイエスさまは生きておられ、今も私たちに愛と同情と慰めに満ちたお方として、いかなる状況に中にあるときでも一緒にいてくださるお方です。「見よ。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいます」とおしゃってくださる臨在の主です。


その生きておられるイエスはその夜明け前のような状況、不安と恐れと虚しさの中にあっても「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」とみことばに従うときに、みことば通りに実現してくださるお方です。その上で、「さあ、朝の食事をしなさい」とお招きくださっているのです。その招きにお応えしていくときに、「主は私の羊飼い。私には乏しいことがありません。」「いつくしみと恵みが追ってくるように」満たして溢れさせてくださる主です。この生きておられるイエスさま、世が変わっても変わることのないイエスさまをこの朝、新たに仰いで、信頼してゆだねて1週間を始めさせていただきましょう。


*1 ヨハネの福音書 21章1~14節

21:1 この後、イエスはテベリアの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

 
 
 

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