ラオディキアの教会への主のメッセージ
2024年9月8日礼拝メッセージ ヨハネの黙示録3:14~22
この朝開かれているヨハネの黙示録を書いたのはエーゲ海のパトモスの島に流刑に処せられたイエスさまの愛弟子ヨハネです。彼はキリストの再臨と新しい天と新しい地の出現とを待ち望みつつ書いたのです。
この聖書に書かれていることを多くの今の時代の人々は信じないかもしれません。しかし、私たちクリスチャンは、キリストの再臨と新天新地の出現、完全な永遠に存続する世界が実現しそこに神とともに住むという幸いを信じています
このヨハネの黙示録の最初の2章から3章ではアジアにある七つの教会が出てきます。この七つの教会は初代から再臨までの時代を代表していると言われています。その七つの教会をご覧になって、イエスさまは恵みとあわれみをもって語りかけておられます。また、それだけではなく、裁きのことも述べておられます。
そして七番目のラオディキアは現代からキリストの再臨のときまでを示すと言われいます。ですから、キリストの再臨が近いと言われている現代の教会に対して語っておられるメッセージだと言えます。私たちの信仰が時代に影響されて停滞しないで成長し、霊的恵みを豊かに経験していくためには、このイエスさまの語りかけに目を留めることは大切で、必要なことです。そこで、「ラオディキアの教会への主のメッセージ」と題して語ってまいります。
第一 イエス・キリストのお姿
メッセージを語られたイエスさまが14節でどのようなお方であるかが紹介されています。まず「ア―メンである方」と言われています。アーメンとは「真実」ということです。私たちはイエスさまを信じています。それでは、何を手掛かりに信じているかというとそれはイエスさまが真実なお方であるということです。私たちはイエスさまが聖であるとか、あるいは愛であるとか、義であるとかいうとき、その聖や愛や義という性質はイエスさまの真実というものによって支えられているということです。たとえば愛ということについて、私たちは「あなたを愛します」と言いましても、その愛ということが真実というものの裏付けをもっていなければ、事情が変わると簡単に変わってしまい、偽りとなるのです。
テモテへの第二の手紙で「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(2:13)と言っています。イエスさまは二枚舌や裏表や偽りのない真実なお方です。
さらに、イエスさまは「確かで真実な証人」と言われています。これは「信頼できる真実な証人」という意味です。イエスさまは真理そのものであられますから、したがって真理を語られます。ですから昔も今も「わたしはかくかくしかじかの者である。」と仰せられればそのとおりのお方です。また「わたしは、こういうことをしてあげよう。」と約束されたことは必ず実行してくださるお方です。ですから、私たちは聖書を通してイエスさまが語られたこと行われたことをそのまま信じています。
また、「神による創造の源である方」です。コロサイ人への手紙でこう言われています。「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生れた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(2:15~17)。
ここにキリストが歴史の始まる前から存在され、万物の創造者で、万物を維持しておられ、万物を完成される方と言われています。ですから、やがて再び来られ、万物を完成される再臨の主です。そのイエスさまがラオディキアの教会に語られたのですから非常に重みのあるメッセージです。
第二 ラオディキアの教会の実情
ラオディキアの教会については他の教会をイエスさまがおほめになったようなことばが全くありません。それは「異端」があったとか、「不品行」をしていたとか、「偶像」にかかわていたということでもありません。また、神に逆らったわけでもありません。
それは別の理由です。15節をお読みします。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」と。イエスさまはラオディキアの教会の心が「氷のように冷い」というのでもなく、主を愛し、献身的で「火のように燃えている」というのでもないと言われました。つまり真実に真剣に霊的な恵みを求めることをしない「生ぬるい」教会である叱責されたのです。
ラオディキアから約10キロ行くとヒエロポリスという町がありました。この町には温泉があり、それでラオディキアの人々はヒエロポリスからの水道橋を作りました。これは水道管をのせている橋です。ところがヒエロポリスの湯元では熱湯ですが、水道管を通って長い距離を行くうちにだんだん冷えて、ラオディキアに来るころには、生ぬるくなっているのです。人々は「さぁ、来た」と飲むのですが、なまぬるいので、「だめだ!」と言って吐き出しました。イエスさまは「そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(16)すなわち、悔い改めなければ裁くと言われました。
ラオディキアの教会の創立時のことは聖書に書いていませんが最初の頃、パウロが健全な福音を伝えたようです(コロサイ4章参照)。しかし、ヒエロポリスの熱湯が時間を経てラオディキアに着いたときに生ぬるくなっていたように、ラオディキアの教会もときの経過とともにイエスさまから「生ぬるい」と叱責を受けるような信仰の状態になっていました。
ラオディキアは、アジア地域で最も繁栄した都市でした。エペソに至る街道筋にあり交通の要所で商業と金融の中心都市でした。それに、この地域には特産物が多かったのです。美しい優秀な羊毛、毛皮、豊富な農産物、目薬の特効薬も作られ、医学学校もありました。それでこの教会には富める人が多かったようです。
ところがイエスさまは17節でラオディキアの教会のことを「あなたは自分は富んでいる、豊かになった。足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。」と指摘されました。ラオディキアの教会は、経済的に豊かですべてが満ち足りて、それ以上、必要なものは何もないと自己満足していたのです。このような豊かな生活ができて幸せだという自己満足のため、信仰が「生ぬるく」なりました。それは霊的生活に関する限り「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸である」と指摘されれような、非常に貧しい、乏しい状態でありました。
現代の教会も信仰が「生ぬるく」なりやすい豊かな時代に存在していると言えるのではないでしょうか。ある牧師が今は氾濫の時代であると言っておられます。川の水は、ほどよく流れている限りにおいては美しく、また田畑もうるおしてくれますが、大雨になどで川が氾濫しますと、水は大切なものを押し流してしまいます。現代の教会もその氾濫(豊かさ)に押し流されないように細心の注意が必要な時代です。
その氾濫とは、第一に情報の氾濫です。今はテレビだけでなくIT時代で地球の裏側で今起きていることが即刻分かる時代であり、「情報化社会」で「情報」が溢れています。第二にことばの氾濫です。「表現の自由」が、戦後与えられたことは幸いなことですが、ことばというものの基礎にならなければならにはずの「心の問題」がなおざりにされ、ことばが非常に乱れています。第三は物の氾濫です。戦後の物のない時代に育った私の世代は戦後の平和な時代と経済成長、驚異的ともいえる科学技術の進歩で予測を超える物が豊かな時代となりひたすら物質的な物を求めるようになりました。第四は機械の氾濫です。テレビ、コンピューター、インターネット、ファックス、エアコン、オーディオ、車、洗濯機、スマホなど数えきれないほどです。いまはそのような氾濫(豊かさ)の状況の中で教会もクリスチャンも影響を受けて存在しています。もちろんこれらが生活を豊かにしていることは事実で、すべてが悪いわけではありません。
豊かになった日本の中で、現代の私たちクリスチャンも便利で豊かな生活をひたすら求める人々とともにあります。豊かさを求めることは一概に悪いこととは言えません。しかし、注意しないと、知らず知らずのうちにその豊かさをもって自己満足してしまう時代の流れに巻き込まれます。私たちを物質的にも霊的にも豊かにしてくださる神に信頼しないでむしろ見えるものに信頼を置く「生ぬるい」信仰に生きる者となる危険な時代に生きています。外側のことのみに関心がいき、イエスさまに対する渇きを薄れさせてしまう時代に生きています。それでイエスさまは現代の私たちにも「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸にする」時代に生きていると指摘されたのです。
パウロはエペソ人への手紙5章で、「ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意しなさい。知恵のない者としてではなく、知恵ある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみころが何であるかを悟りなさい。」(15~17)と勧めています。
第三 イエスの勧告
そこでイエスさまはラオディキアの教会のクリスチャンに勧告されました。それが、18節です。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。」ここからはイエスさまは個人に語りかけておられます。ここに「買いなさい。」とあるのは、「信仰もってわたしから受け取りなさい。」という意味です。
そこで、第一に火で精錬された金とは、試練で試された純金のような信仰です。ラオディキヤの教会のクリスチャンたちは、銀行にお金を預けて「自分は富んでいる」「豊かだ」「足りないものは何もない」と金持ち気分でした。
しかし、たとえ貧しくても純金のような信仰は神から来る「豊かな恵みの富」(エペソ1:17英訳)、とか「キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさ」(ピリピ4:19)と言われている恵みをもたらします。たとえ貧しくても、「聖霊による義と平和と喜び」(ローマ14:7)が与えられ、「イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉をもたらします。」(Ⅰペテロ1:7)。
第二に白い衣とは、花嫁の礼服である聖潔のことです(黙示録19:8)ラオディキアの教会は経済的に富み、文化的に進んだ人々でしたが、霊的には裸の状態でした。「裸の恥」とはきよめられていない肉的クリスチャンのことです(ガラテヤ人5:19~21)。パウロはエペソ人への手紙4章で「古い人を脱ぎ捨て……て新しい人を着なさい。」(22~24)と言っています。また、ローマ人への手紙13章でも「主イエス・キリストを着なさい」(13:14)と言っています。これは「主イエス・キリストにいっさい支配してもらいなさい」ということです。イエスさまから「あなたは誰のものですか。」と尋ねられたとき、「私のすべてはあなたの者です。」申し上げることです。それは、イエスさまに導かれ、イエスさまの愛があなたがたの心を動かす動機となるように、そして、イエスさまに仕えることがあなたの喜びとなることです。
第三に目薬を買いなさいと言われました。このラオディキアの町は、医師を養成する学校や診療所が多くありました。特に目の悪い人ために「フルギヤの粉薬」というのがあって、眼病によく利いたと言われています。今、イエスさまは、このラオディキアの教会のクリスチャンに「あなたがたも霊眼が見えないなら、私が霊眼を開けてあげます。それは聖霊の目薬のことです」と言われたのです。パウロはエペソ人への手紙1章で「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」(17)と言っています。そのとき、目が開かれて、表面的な宗教行事のようなものによって自己満足したり、欺瞞に陥ることはなくなるです。そうではなく、永遠の希望、神の御国、神及び主イエスご自身、キリストの教会、救霊といった霊につけるものを、他の何よりもまさって、それを重んじ、それを求めるようになります。
第四 警告と約束
イエスさまは19節で、「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」と勧められました。私たちは懲らしめ(試練)を神の愛の深いご配慮であると信仰もって受け入れることです(へブル12:6~7、11)。神の子であるクリスチャンは懲らしめ(試練)を通して反省、自己内省が与えられ、悔い改めを迫られ、神の道に立ち返るように導かれるのです。ですから今「生ぬるい」と示されたら主の前に悔い改めることです。それが心が熱く燃えさせ献身的に主に仕える新しい出発のときとなります。
続いてこの後イエスさまは二つの約束をしておられます。一つは20節で「見よ、わたしは戸の外に立っている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と言われました。私たちはイスさまの十字架によって救われ、生まれ変わり、永遠のいのちに生きる者とされました。しかし、イエスさまはさらに豊かな個人的な深い人格的な交わりを求めておられるのです。それが「内住のキリストの恵み」です。イエスさまによって救われた者が、この世にあって受ける最高の恵みが内住のキリストです。この恵みに至る導きはそれぞれ違いますが、救いの目的は一人ひとりが聖霊によってキリストを内に宿し、その内住のキリストによって生活し、奉仕し、福音を伝えることです。この恵みによって救いにあずかった私たちに真の満足と喜びと確信が与えられるます。この内住のキリストが火で精錬された金、白い衣、目薬を与えてくださるだけでなく恵みの生涯を継続させてくださるのです。聖霊はキリストの霊ですから、内住の聖霊が恵みの生涯を継続させてくださると言っても同じです。
日々、「私のすべてはあなたの者です。」と心を開くとイエスさまは内に来てくださいます。「彼とともに食事」をするとは最高の親しい交わりです。そこに真の喜びと感謝と満ち足りる秘訣があります。
もう一つの約束は21節です。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」と。イエスさまは地上にあられた日々、多くの誘惑、試練にあわれましたが、ことごとくこれらに勝利して報酬を得られました。そのように、その生涯の終りに至るまで、忠実にイエスさまに従う者に対して報酬が待っているのです。
2011年3月11日(金)に福島県の郡山で東日本大震災を経験しました。6分間震度6の揺れが続きました。もうだめだ死ぬと思う中で必死に大声で「イエスさま地震を止めてください!」叫びました。やがて地震は止みましたが、震度5の余震が一年に数十回続き、放射線汚染の危険もある厳しい中を通りました。地震による建物の全壊、津波による何一つ残らない流失、放射能の被害の危険、言語に絶するの光景をあちらこちらで見ました。
そのとき与えられたみことばの一つが、へブル人への手紙12章27節~28節です。「この『もう一度』ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」(27~28)でした。イエスさまが再臨され来られるとき今ある目に見えるすべてのものは消え去り、新天新地が実現するのです。地震後の最初の礼拝では聖書のこの箇所から語らせていただきました。また、もう一つ与えられたみことばは「私たちは見えるものにではなく見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(Ⅱコリント4:18)でした。信仰によって見えないものを見えるかのように新天新地をめざして信仰生涯を全うさせていただきたいと決心しました。
私が以前使って讃美していた新聖歌のタイトルが「主を仰ぎ見れば」の歌詞をお読みします。3節「麗(うるわ)し慕(した)わし 永遠(とこよ)の国 うららに恵みの 日影照(ひかげて)れば いのちの木(こ)の実は 稔(みの)り繁(しげ)く 永遠(とわ)に死の影も 悩みもなし」 4節「露(つゆ)だにいさおの 有(あ)らぬ身をも きよめて御国の 世嗣(よつぎ)となし 黄金(こがね)の御殿(みとの)に 住ませ給(たも)う わが主の愛こそ 限りなけれ」。新天新地の何と幸いな恵みでしょうか。感謝!
私たちは信仰が生ぬるくなりやすい時代に生きています。もし生ぬるくなっているなら悔い改めましょう。そして日々神さまとの親しい交わりを持ち、内住のキリストの恵みに生きましょう。イエスさまを心底から愛し、仕え、導きに従いつつ、キリストの再臨と新天新地での新しい生活を仰ぎ望みながら励みましょう。
*ヨハネの黙示録 3:14-22
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。
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