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主の恵みに生きる


2024年2月11日メッセージ 

使徒の働き4:23~33 *1

 

 私たちが教会と言っていることばは原語では「エクレシア」と言います。エクレシアとは「召し集められた者の群」という意味です。「自分がどんなに罪深い者であるかを知り、悔い改めてイエス・キリストの十字架の身代わりの死は私のためでしたと信じて救われた者」が召し集められた群のことです。

召し集められた人たちについてパウロはコリント人への手紙第一1章で「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者は多くはありません。」(26)と言っています。もちろんクリスチャンの中にもこの世的に立派な人優秀な人もおられますが、大部分の人たちはごく普通の人たちであり、初代教会の時代も今も変わらないと思います。

ところが33節をご覧ください。「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。」とあります。この「恵み」ということばは、美しく、幅の広い、深いことばですが、元来の意味は、<それを受けるにふさわしくない者に与えられる神の愛の顧み>と言う意味です。

ですから教会には人の知識や努力や働きなどをはるかに超えた聖霊を通してなされる神の恵みがあります。そこで、神の恵みが初代エルサレム教会の信徒たちにどのような結果をもたらしたかを学びたいと思います。

 

第一 悪意が意味あるものに変えられる

初代エルサレム教会の信徒たちはどのような事情に置かれていたかが3章、4章

に記されています。生まれつき足の不自由な一人の男が、毎日、エルサレムの神殿の「美しの門」(3:2)のところに運ばれて来て物乞いをしていました。その男の前をペテロとヨハネが通りかかったとき、何か貰えると期待して施しを乞いました。するとペテロがこの男に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6)と命じたのです。そしてペテロが右の手を取って起こしてやると、たちまち強くなって、歩き出しました。その不思議な出来事を見て、群衆は驚き、人々が大勢、ペテロとヨハネの所に集って来ました。そこでペテロがイエスの死者からの復活を語り(14~16)、そのイエスの名を信じたこの人がこのとおり完全なからだになったと話しました。

ところが、群衆が彼らの教えに喜び、ついていく様子に驚きと脅威を感じた祭司たちや神殿の責任者たちがやって来てペテロとヨハネを捕えました。そして「おまえたちは何の権威によって、まただれの名によってあのようなことをしたのか。」(4:7)と尋問したのです。そこで聖霊に満たされたペテロが誰をも恐れることなく「この方以外には救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(12)と大胆に主イエスの復活と救いを語りました。

そう語った二人は無学な普通の人間であり、この二人がイエスと一緒にいた人物で

あることも分かり、しかも癒された人が二人と一緒に立っているのを見て返すことばもなかったのです。そこで「イエスの名」が民衆を騒がせた原因であるとして、「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならない」(18)と彼らに命じました。もし、命じたことにそむくなら、どんな恐ろしい結果になるか分からないと脅したのです。しかし、ペテロとヨハネはそのとき冷静にイエス・キリストのことを祭司たちに話しました。それだけでなく、「人に従うより、神に従う」(19)ことができることを喜び、そのような相手に対して憎しみや、苦々しい思いを持つことをしませんでした。

私の先輩の牧師夫人が神学生のときこんな証しされました。まだ物心つく前に母親が彼女と父親を捨てて蒸発してしまったのです。上野の高級化粧品問屋のひとり娘でこわれものを扱うように育てられました。ところが母親は別の男性と結婚していてそれを中学生になったとき知ったのです。よくも幼い自分を捨てて身勝手なことができたものだ、と母親に対する憎しみとそれを隠していた周りの人に対する激しい人間不信に陥りました。短大生のとき教会に導かれ救われました。同時に十字架のイエスの愛を経験し、自分でも今まで考えてもみなかった愛の泉が湧き上がるのを経験したのです。その彼女にはどうしても生みの母親を赦せない思いがあってしばらく葛藤が続いたのです。ところが自分のような罪深い者のために十字架にかかってくださったイエスの愛に迫られて、ある早天祈祷会のとき「主よ、わたしはいま、母をゆるします。」と涙を流して祈られたのです。キリストが憎しみを通して神の愛を経験させてくださり赦す心を与えてくださったのは、これは恵みです。

 

第二 暗黒の中で神を認める

二人は釈放され仲間の所に帰って来て、一部始終を報告しました。これは誕生したばかりの教会にとっては暗黒の状況でした。その報告を聞いた彼らは何をしましたか。心を一つにして口をそろえて全てのものをお造りになった神に向かって祈りました。「主よ。あなたは天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方です。あなたは聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。」(24、25)。そして詩篇1篇1節、2節を引用してこう祈りました。「なぜ、異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの国民はむなしいことを企むのか。地の王たちは立ち構え、君主たちは相ともに集まるのか、主と、主に油注がれた者に対して」。彼らは詩篇のこのことばが、イエス・キリストのご受難の際に実現したことを聖霊によって洞察していました。

続いて27節と28節をお読みします。「事実、ヘロデとポンチィオ・ピラトは、異邦人たちやイスラエルの民とともに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とご計画によって、起こるように前もって定められていたことすべてを行いました」。

つまり、彼らは、すでに、イエス・キリストの十字架の死が敗北ではなく、神のご計画の成就であることを知っていたのです。神は反逆者の手を用いてでも、ご自分のご計画を達成されるお方です。もし神が、反逆者の反逆を用いて、ご自分のご計画を達成されるお方であるならば、神は全能なるお方であり、エルサレムの信者、弟子にも同じことをなさらないでしょうか。彼らはこの迫害が勝利の機会となることを信じたのです。

東京の由緒ある家に育ち、福島県の旧家にお嫁に来た女性がいました。その家も由緒ある事業家の家で、寺の檀家総代でもありました。田舎なので家族は20人。その中で一人だけクリスチャンになったものですから、大変な反対がありました。姑に呼ばれて、「あなたは檀家の総代の長男の嫁だ。もしキリスト教信仰を続けるなら離婚するから出てゆけ」と夜中の12時まで説得されたのです。

食事も別でした。もちろん教会には行けません。祈りも自由にできません。トイレに入って聖書を読んでいると偵察に来るそうです。そんな監視つきの生活にも関わらず、このことがこの一家の救いにつながると信じていました。睡眠時間を削って、ゴミ一つ落とさないような完璧な家事をしたのです。その結果、お姑さんの心が溶けました。「お前が喜ぶのは着物を買うことじゃなく、教会に行くことだろう。教会に行ってもいいよ」と言ってくださったのです。

やがてこの家もクリスチャンホームになりました。インテリだったご主人もクリスチャンとなり、召される数時間前に奥さんの手を握りながら「僕はイエスさま信じているから心配するな。天国で会おう。ありがとう」と言われたそうです。地上にあって最も愛する者と別れるときにこのような会話ができるということは悲しみ淋しさの中にも何という慰めと希望でしょうか。

私たちが生きて行く中で、四面楚歌と思われるような状況に置かれても天は開かれています。そのとき、弟子たちと同じように、生きておられる神に絶対の信頼と信仰をもって祈るとき、神は恵みを注がれます。すなわち、暗黒の中で神を認め祈るとき、道なきところに道を開いて平安と勝利を与えてくださるのです。これは恵みです。

 

第三 恐れから解放される

彼らは主に「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。」(29)と祈りました。この祈りは聞かれました。「一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した」(31)のです。命を狙われている状況の中で大胆になる、勇気を持つ、ということは恐れがなくなってしまうということではありません。恐れに勝つということです。弟子たちはこう祈ることができました。<主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、私たちを、この苦しみから逃れさせて下さい>と。私たちはこのように祈ることがあるのではないでしょうか。しかし、弟子たちが祈ったことは問題から逃れることではなく、問題に立ち向かうことでした。

ちなみに、祈り方には3種類があります。まず、①絶えず祈る祈りです。私が知っている姉妹は車を運転していて信号待ちしているとき主の祈りをささげられるのです。来客があるときには何の料理を作ればいいのか祈って決められます。もちろん仕事の初めにも途中にも終りにも祈られます。私たちが1日の生活の中で、その時々上を仰いで主よと祈り臨在の主を覚えつつ生活することです。2つ目は➁定期的に祈る祈りです。朝昼晩と食事の時間が一定でないと生活のリズムが崩れて体調を壊すように、霊的な健康も一定の時間にきちんとした祈りの時間を取ることが大切です。そうすると生活は全然違ってきます。3つ目の祈りは、➂深く魂を注ぎ出して祈る特別な祈りです。ときに大きな問題に直面し心注いで祈りをささげることがあります。私も何度も前後左右から圧迫され、このままではどうにもならない状況の中で祈り、恐れは去り、勇気を与えられました。これら3種類の祈りの中でどれが一番大切という優劣はありません。みな大切な祈りです。

旧約聖書の初めも、新約聖書の初めも「恐れ」(創世記3:8~10、マタイ2:3)で始まっています。私たち人間のうちに深く巣食っているのは恐れです。私たちは何十年間かの人生の中で何度も恐れを感じてたじろいだことがあるのではないでしょうか。しかし、詩篇23篇4節で「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいをおそれません。あなたがともにおられるからです。」と歌われています。

ジョン・ウエスレ―は死ぬ間際に周りの人たちに「人生で最も幸いだったことは主が共にいてくださったということです」と語りました。復活の生ける主が聖霊によって私たちと共にいてくださるなら恐れから守られるのです。これは恵みです。

 

第四 復活のイエスの証人となる

「使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。」私たちが、救い主イエス・キリストが死に勝利されてよみがえられ生きておられることを証しできることは「大きな恵み」です。もと漁師であったペテロは聖霊に満たされて「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(4:12)と証ししました。

キリストの証人となる第一のことはキリストを信じて生まれ変わりの経験、すなわち救いの確信と喜びがあることです。もう一つのことは、31節に「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、神の言を語り出したのです」とありますように聖霊に満たされることです(使徒1:8)。このような人はキリストの証人となることができます。

その上で以下のことに留意したいと思います。①きよい心で生活をすること。主は堕落した者とともに働くことはできません。②私たちの名誉のためではなく、神の栄光と人々の祝福を求めることです。➂神ご自身のみことばをすべての武器として用いましょう。④主の聖名のもとにある人と一致し祈り合いましょう。⑤信仰によって聖霊に頼りつつ宣べ伝えましょう。

パウロは救われたクリスチャンに対して「御霊に満たされなさい。」(エペソ5:8)と命じ、さらに「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ5:16)と言いました。「歩く」とは「生活しなさい。」ということです。つまり聖霊に明け渡しそのご支配の中で時々刻々生活しているかということです。別の言い方をすれば内住のキリストの恵みに生きているかということです。

京都の教会の姉妹のお証しです。ある年のクリスマスにお父さんの救いを待っていた高校生の娘さんが一緒に洗礼を受けられました。そのお父さんが「どうしてイエスさまを信じるようになったのですか」と聞かれたときこう答えられました。「私の妻がいろいろな悩みや問題の中を通るのを見て来ました。ところが不平や不満や苛立つことなくいつも自分の机に向かって座り聖書を読んで祈り解決を得ている姿を見ていて、妻の信じているイエス・キリストを信じようと求めるようになったのです」と。このように復活され生きておられるキリストの証人とされることは恵みです。

 

この朝、ペンテコステの日に始まった初代のエルサレム教会に聖霊がどのような恵みをもたらされたかを学びました。私たちはイエス・キリストの救いに与り召された者の集まりであるこの教会の一員です。一人ひとりが聖霊に明け渡し聖霊のご支配に身を委ねた生活をしましょう。そして一人ひとりが暗黒の中で神を認める恵み、悪意による取り扱いを受けるとき、そのことを意味あるものに変える恵み、恐れから解放されるという恵み、復活のイエスの証人となる恵みに生きる者とさせていただきましょう。またその恵みを分かち合い、励まし合っていく教会を目指しましょう。


*1 使途の働き 4:23~33

4:23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。

4:24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。

4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

4:26 地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』

4:27 事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、

4:28 あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。

4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。

4:30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。


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