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主の臨在を仰いで


2025年1月5日礼拝説教 ヨシュア記1:1~9

 

主の2025年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。私たちはこの朝、礼拝堂にともに集いこの年最初の主日礼拝をささげ一週間をスタートできることを心から感謝いたします。 

私たちは今宗教も政治(社会)も自然界も混乱し、時々刻々大きく移り変わる激動の時代に生きています。そのような中でも昨年よりもすばらしい年となるように、主に喜ばれみこころにかなった年となるように願っています。そのためにどこに目を向ければいいのでしょうか。私たち自身でしょうか。そうではなくともにいてくださる主を仰ぎ、聖霊の恵みによって新しい一年歩むことにその秘訣があります。

そこでこの朝はヨシュア記1章から「主の臨在を仰いで」と題して三つのポイントに分けて語らせていただきます。


第一 信仰の戦い

イスラエルの民がエジプトで塗炭の苦しみの中にあったとき、指導者として神に立てられたのはモーセです。彼は200万のイスラエルの民をエジプトから約束のカナンの入口、ヨルダン川の東、アラバまで40年かけて導きました。

ところがモーセは死に、神はその後継者としてヌンの子ヨシュアをお立てになり約束したカナンの地を占領するように命じられました。その約束の地には先住民が住んでいましたし、占領するには多くの困難がありました。そのとき神は「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」(3)言われました。神はヨシュアが神の約束のことばを信じ、神は敵に勝利させてくださる全能の主であると信じて戦うなら約束の地を得ることができると言われたのです。ですから約束の地を得ることができるかどうかはヨシュアの信仰にかかっていたのです。

このヨシュア記全体を読むと分かりますが、全体のテーマは「信仰とは戦いである」ということを教えています。ところが新約聖書も私たちの信仰生涯には戦いがあると教えています。パウロはテモテへの手紙第二を彼が死刑に処せられる可能性の高い状況で書きました。その4章7節で「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と言っています。パウロは救われて以来、戦いの多い伝道者生涯でしたが、真実な神を信じる信仰を守り通してきたと言っています。

私たちは「恵みと信仰によって救われました」(エペソ2:8)。また「信仰により、キリスト・イエスによって神の子ども」(ガラテヤ3:26)とされ、神を「アバ父よ」(ガラテヤ4:6)と呼ぶことができる者とされました。さらに「信仰によって御霊を受ける者」(ガラテヤ3:14)とされ、「信仰によって喜びと平安と希望が与えられ」(ローマ15:13)生きています。それで聖書は「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)と言っています。

ところがイエス・キリストによって救われたクリスチャンがこの世で日々福音にふさわしく神中心に生きようとするとき、その「信仰には戦いがある」のです。  

私たちが生きているこの世は神を除外し、神を認めない、神を無視した世界であり、そのような制度、組織、営みの中で、私たちクリスチャン生きています。

クリスチャンは十字架によって救われ生まれ変わり愛のうちを歩み、きよき生活を目指し、神のみここにそって神と人に仕え生きる者とされました。またクリスチャンは国籍を天に持ち天国を目指し、神の永遠のご計画のもとに歩んでいる者です。やがて主の再臨のとき復活しこの肉のからだが栄光のからだに変えられ、新天新地に神とともに永遠に住むこの上ない幸福が与えられる希望を目指して生きています。ですからこの世では寄留者、旅人として信仰によって歩んでいます。

そのためクリスチャンの存在そのもの、具体的な生き方がこの世の多くの人々の生き方や生活と異なり戦いがあります。さらにクリスチャンは人々に福音を伝え、人々を救いに導く使命に生きていてそのため労苦(犠牲)と戦いがあります。

しかもクリスチャンの生き方から遠ざけ離れさせようとする誘惑もあります。クリスチャンが経験する誘惑との戦いは必ずしも目に見えるものだけではなく目に見えないこの世を支配している霊的なものとの戦いでもあります。それでパウロは「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:11~12)と言っています。その霊的な戦いに対する勝利の秘訣はエペソ6章17節18節にありますように、「御霊の剣」(みことば)と「御霊によって祈る」ことによって得られるのです。

他団体の牧師が牧師研修会でお話しされたことです。東京のある教会のクリスチャンの兄弟のことです。取引のある会社から電話がかかってきて契約したいので来るように言われ出かけました。社長室に通され1千万円程の内容の契約の話でした。ところがいざ契約する段になって「ここに祀っている神を拝んでもらいたい。」と求められました。そのとき偶像として断るとなると会社での自分の立場がどうなるか、会社の利益にも関係します。そこで短く御霊によって祈りました。すると「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14:27)とのみことばが与えられました。そこで異教の神を拝むことを断って会社に帰って来ました。同僚たちが「○○君惜しいことをしたよ。ただ頭をぴょこんとさげておけばいいのにもったいないことをした。」と笑われたのです。祈祷会に出席して「偶像に頭をさげることはできないので断りました。神の御名があがめられるようにお祈りしてください。」と話しました。牧師夫妻と兄弟姉妹たちが「御名があがめられるように」と熱心にその夜だけでなく続けて祈ってくださいました。次の週の祈祷会に兄弟が来て「実はその会社が倒産しました。同僚たちが契約しなくてよかった。と喜んでくれました。」と。全能の神は今も生きておられます!

事の大小、見えるもの見えないものに関係なくクリスチャンの信仰生涯には戦いがあり誘惑もあります。しかし、みことばと御霊によって祈るとき勝利を得ることができるのです。


第二 主の臨在の約束

モーセが率いた荒野の40年の旅も困難な日々でしたが、約束の地カナンを得るには現在住んでいる先住民との戦いがあります。エリコの町にしても古代中近東の中心的な強固な砦のある町でした。さらに山あり川あり谷あり荒野のありの地を占領するのは困難で容易ではありませんでした。

ですからカナンはヨシュアの個人的な能力によって、すなわち単に人間的な努力によって占領できる地ではありません。またイスラエルの戦力によって自分のものとすることができる地でもありませんでした。後継者のヨシュアは信仰の人でしたが、自分はモーセのような偉大な人物ではないと自覚していましたので、予想されるさまざまな困難を思い恐れおののき心ひるむ思いでした。

そのとき神さまは予想されるさまざまな困難のゆえに恐れ、おののき、心ひるむ思いでいたヨシュアに向ってやせ馬にムチ打って、一歩も前に進むことができないものに向って、「前進しろ、前進しろ」とやらせるお方ではありません。「雄々しくあれ、強くあれ」と言いながら、後手をこまねいて、「がんばれよ。お前たちのため見ているから」とおっしゃるお方でもありません。

そうではなくこう励まされたのです。5節をご覧ください。「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と。ヨシュアはエジプトを出て以来40年間モーセのもとで一緒に行動し神がイスラエルの民にしてくださったことをつぶさに見て来ました。そのヨシュアに対して神は「モーセのあの偉業は、モーセの個人的な努力や指導力だけによるのではない。ただ私がモーセとともにいて、彼の行くところに道を備えたからである。」と語られたのです。モーセとともに働いた神が今ヨシュアと「ともにいて」「見放すことも見捨てることもしない」と「臨在」を約束されたのです。

それだけでなく9節で「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられる」と念を押すように約束されました。私たちが信じている神は私たちともにどこにでもいてくださる臨在の主です。さらに私たちがこの地上の生涯を終えて召されるまでともにいてくださる臨在の主です。さらに「昨日も今日も、とこしえに変わることがない」(へブル13:8)とあるように永遠に変わることのない臨在の主です。それでダビデは「たとえ 死の陰を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。」と言いました。いつもどこにでもいつまでも変わることなくともにいてくださる臨在の主なのです。何と力強いお方でしょうか。

 ヨシュアとイスラエルの民が先住民の中、厳しい未知のカナンの地を戦いつつ進まなければならなかたように私たちもこの世にあって信仰の戦いがあります。

気の弱いクリスチャンがいました。気温によって上がり下がりする寒暖計のような信者でした。ちょっとした人のことばや態度で心が傷付き、信仰も動揺しがちでした。ある晩、夢を見ました。野原の中に立っている自分に火矢が打ち込まれてくるのです。普通ならひとたまりもなく倒されてしまうのに、不思議なように自分の目の前で、その火矢がばたばたと地に落ちてしまうのです。夢から覚めて示された聖書のみことばは「主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる。」(ゼカリヤ2:5 口語訳)だったそうです。四面楚歌の状況にある私に対して、臨在のキリストがその周囲で火の城壁となり、私を通してキリストの栄光を現してくださるとの意味と悟りました。キリストは十字架上で死なれたが死に打ち勝って今も生きておられる臨在の主であると同時に内で働いてくださるお方なのです。その姉妹はその主に明け渡して以来信仰が感情に支配されることが少なくなり、事情境遇に左右される動揺しがちな信仰から動揺しなくなる信仰生涯に徐々に変えられていきました。

私たちがどこかで主から「あなたはだれのものか」と問われ、「私は主のものです」と明け渡すとき、人がクリスチャンとなったときと違った、さらに深い内的変化が起きます。そこから臨在信仰、内住のキリストの恵みの生涯に入れられ成長するクリスチャン生涯が始まります。行動、品性、奉仕に変化が起こります。自分の不完全さ弱さを常に覚えつつ、どんな些細なことをするときにもイエスさまの助けを求め、共にいてくださりうちにいてくださるイエスさまにゆだねるようになるのです。その結果どんなときでも感情的になることなく、動揺が少なくなり、雄々しく、強く勇気ある揺るぎない信仰生活を送ることができるようになります(エペソ3:14~19)。

時々刻々大きく移り変わる激動の時代にあってこの臨在信仰、内住のキリストの恵みによって揺り動かされることなく、一種独特の余裕をもって生き、この恵みを証しして行く信仰に生きる一年とさせていただきましょう。


第三 みことばへの聴従

私たちを雄々しくし、強くし勇気をもって歩めるようにする神が共にいてくださるという事実、「主の臨在」というのは神秘主義ではありません。キリスト教というのはやっぱり宗教だな。そういう非科学的なことを言うのだな。ああ、そうか。目をつむってじっとしていたら、神さまに会ったとか、悟りが来たとか言いたいのだな、と受け止めている人がいるならそれは聖書の教えではないのです。

主の臨在は決して観念の世界のできごとではありません。つまり心の中でこういう像の神さまがいてくださると描くことではありません。主の臨在は確かなもの、リアルなもの、現実的なものです。それでは何によって確かめるかというとみことばです。ひとりの人の存在が、その人のことばに代表されるように、神のことばに従って行くとき、生きておられる神とともに歩むことが現実となります。

7節をご覧ください。「わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべて

を守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。」「律法」というのは「神のみことば」のことです。ここで「律法のすべてを守り行う」とは「みことばに従いなさい」ということです。これは少し道徳的に聞こえてくるかもしれません。しかしその意味は、みことばを心に貯えて、私たちの人生が心の中にあるみことばによって律されていくということです。そうしたら、誘惑と困難とに勝利して満ち足りた「栄」の人生を送ることができるという意味です。

私たちは、弱い者です。いつ、どんなつまずきがあるか、いつ破綻が来るか分からないような存在です。けれども、みことばによる生涯を送ってさえいれば大丈夫です。たとえどんなことが起ってこようが、どんなことに遭遇しようが、どんなことに取り囲まれようが、みことばに従った生涯なら大丈夫なのです。私たちは弱いですから、現実を見るとすぐあわててしまいます。何かを聞きますと、すぐ心が動揺します。けれどもみことばに聞き従うことです。そうすれば、神さまは「あなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(5)と約束されたように、決して行き詰ることなく、敗北してしまわないように勝利に導いてくださいます。

みことばのことを「キャノン」と言います。定規という意味です。線を引くときに定規をあてて引きますとまっすぐに引けます。そのようにみことばを心の中に貯えていたら、右に行ったり左に行ったりすることはないのです。ヨシュアも神の約束のことばを信じ、神は敵に勝利させてくださる全能の主であると信じて右にも左にもそれることなく戦い約束の地を得ました。

滋賀県でご奉仕していた教会に歴史が300年以上、従業員が100名近いスーパーを経営していた姉妹がおいでになりました。日曜日は厳守され12月30日、31日が日曜日でも店を休みにされました。そうはいってもさまざまな状況が生じ苦しい所を通られました。そのときは必ず牧師のところに行き祈っていたきながら経営してこられました。あるとき、厳しい状況の中牧師に相談されました。ところが厳しい状況なので牧師は人間的な同情的なお話をされました。するとこの姉妹が「先生、そのようなお話はそこそこでいいのです。みことばをください。」と言われたということです。私の時代には高齢になられ300年の歴史ある商売を閉じておられました。その後いろいろな業者、コンビニがない地域なので特にコンビニ関係の人が「店を貸してほしい」とか「売ってほしい」と求めて来られました。その都度私のところにもおいでになり一緒にお祈りしましたが、「コンビニには貸しも売りもしません。」と言われるのです。どうしてかというと「酒類やいかがわしい本を商売にするからです」と断られ、近くある広い土地は「市の観光駐車場」に安くお貸しになりました。私はこの姉妹の信仰に多くのことを教えられました。

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」(コロサイ3:16)とあります。神のことばが心のうちに豊かに蓄えられれば蓄えられるほど信仰は強くなります。私たちの神につける霊界の知識はことごと神のことばによるのです。聖書がなければ、神の世界について人の心は無知です。無知の心にみことばは光を与え、生命を与え、知識を与え、恵みを与えます。

私は原則、日によって多少長い短いはありますが毎朝デボーションのときを持っています。今は黙想する時間もより多く取れるようになり感謝です。しかし、よほど注意深く生活しないと毎朝の生活が乱れたり崩れてしまうことも教えられています。

それではどうして聖書を読むことが大切なのでしょうか。第一に成長のため、霊的成長のためです。第二に自分を清く保つためです。罪や誘惑から守る力を与えてくれます。第三に主に導かれるためです。日々の生活を導いていただくためです。第四に主からの知恵が与えられるためです。日々起こってくる出来事に対して、洞察力と導きを得るためです。ですからデボーションを重んじる生活こそが人を明るくし、愛ときよさと豊かに、積極的に生きる者とさせます。

今年も混乱と時々刻々大きく移り変わる激動の一年が続くでしょう。そのような状況の中でクリスチャンには信仰の戦いと誘惑があります。しかし、臨在の主を仰ぎ、みことばと祈りと聖霊によって生き、昨年よりもすばらしい年となるように、主に喜ばれるみこころにかなった年となるように、人々に福音を証しする信仰生活に励みたいと思います。 


ヨシュア記 1:1~9

1:1 さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。

1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。

1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

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