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信仰の成長・三つのステージ



2023年8月20日礼拝メッセージ 

ヨハネの福音書4章46~54節 *1 

 私が神学校を卒業して最初に遣わされたのは長野県の岡谷教会でした。まだ遣わされて数ヵ月の頃、礼拝が終わった後、若い一人の姉妹が生後5ヵ月程の男の赤ちゃんを抱いて連れてこられ、「発育が悪く首が座らないのです。」ととても不安そうに訴えられました。看護師の経験のある妻も一緒に不安のご様子を聞き、私は赤ちゃんに手をおいてお祈りし、「大丈夫ですよ。神さまにお委ねしましょう。」とお励まししたことがあります。その後、発育が良くなり首が座り、立派に成長され今では2児のお父さんになっておられます。

 親なら例外なく誰でも生まれてきた子どもが健康で順調に成長することを願います。それと同じように天の父なる神さまも主イエスの十字架によって救われ神の子とされた私たちクリスチャンが信仰において成長することを望んでおられます。最初は弱い信仰であった者が、やがて成長し、強い本物の信仰者に成長していくことを願っておられます。ただし信仰は年数がたてば自然に成長するものではありません。

 信仰の成長の段階は、厳密には四つないし六つに分けられるのが適当だと思います。ところが今日の聖書の箇所では信仰の成長を三つに区分しているように思えます。そこで、「信仰の成長・三つのステージ」と題して語らせていただきます。


第一 求める信仰

 ガリラヤ湖の北岸のカペナウムに王室の役人が住んでいました。元訳では「役人」は「大臣」と訳されていますから社会的に身分の高い人であったようです。この役人は、ナザレ人イエスという人が、ガリラヤやユダヤの町々で、力ある説教をし、愛の奇跡を行って人々の心を捕らえているといううわさを聞いていました。しかし何の問題もなく恵まれた日々を過ごしている自分に関係があるとは夢にも思っていなかったので、ただ心の隅にしまっておきました。

 ところがある日、突然、息子が病気になってしまいました。多分、彼のひとり息子であり、父の最愛の子でした。これは父親にとって大きな心の痛みでした。自分の手の届く限りの医者に相談しました。しかし、医者は子どもを診てもう望みはないと告げたのです。

 子どもを助ける手だてがない四面楚歌のような悩み苦しみの中で、父親はハッと思い出したのです。ナザレのイエスがなさった、癒しの奇跡のことです。そのとき、この父親の魂の中に小さな信仰が芽生えました。小さなものでありましたが、この人なら癒してくださるかもしれないという求める信仰でした。 

 そこで、カペナウムからカナまで南西に約30キロありますが、彼はガリラヤのカナにおいでになっているイエスの所に行って息子の病気を治していただこうと、出かけました。そしてイエスさまに「下って来て息子を癒してくださるように願った。」(47)のです。そのとき「息子が死にかかっていた」(47)のです。

 この役人はイエスさまなら息子を治していただけるのではないかという信仰の希望をもってこうお願いしたのです。しかし、彼の信仰はイエスさまが来てくだされば、治していただけるとの信仰でした。そのために、イエスがきてくださるのだろうか。きてくださらないのだろうか。という恐れと疑いも混じっていました。また彼はうわさに聞いているイエスさまでも息子が生きていなければ病を治していただけないのではないだろうかいう思いもありました。というのはイエスさまが死人をよみがえらせる力をもっておられるとは信じていなかったからです。

 私たちもそういう信仰の祈りをささげることがあるのではないでしょうか。確かに主は私たちの願うことを成就することがおできになると信じています。しかし、私のような者が祈っても神さまが本当に答えて下さるのだろうかと恐れと疑いを持ちながら祈っていることがないでしょうか。またイエスさまでもこのことなら出来るが、このことは無理ではないかと人間的な知識や経験で判断しつつ祈っていることはないでしょうか。

 このとき、イエスさまはこの役人の心をお探りになりました。48節をご覧ください。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と。「あなたは、私がそこに下って行って手をもってあなたの息子に触れて治さなければ信じないのです。」「そのような信仰はほんとうの信仰ではありません」と言われたのです。

その意味で主は私たちの心を探っておられると思います。主が私たちの心の中に、何かを感じるように、感情をかき立ててくださるならば、私たちは信じるかもしれません。あるいは、私たちの目で見えるような具体的なことが起こるというしるしがあれば、信じるかもしれません。しかし、そういう信仰はほんとうの信仰ではないとイエスは言われたのです。このように求める信仰は、信仰の第一段階なのです。


第二 約束のみことばを信じる信仰

 この役人は47節で、「下って来て息子を癒してくださるように願った。」のです。49節でも「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」と願いました。この役人は2度も主がともに下ってきてくださることを熱心に願い求めました。しかし、イエスさまは2度のその切実な願いにはお答えなりませんでした。

 けれどもイエスさまはことばでは言表すことのできない深いあわれみの眼差しをもってこの役人をご覧なりました。そして、「イエスは彼に言われた。『行きなさい。あなたの息子は治ります。』」(50)とこの役人にお語りになりました。すると、「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(50)のです。

 この役人の父親は、まだその証明が確実にはなっていないのに、ただ主の約束のことばを信じ期待しつつ、イエスさまのもとを去って家路についたのです。ここで、彼は、その信仰の第二段階に到達したのです。役人の信仰は求める信仰から主の約束のことばを信じる信仰の段階に至ったのです。

 彼の切なる願いはイエスさまに来ていただくことでした。しかし、役人はイエスさまのおっしゃったとおり従いました。このときの役人の顔を想像してみてください。顔からは憂いが消え、喜びの涙が流れました。彼は感謝に溢れています。「あなたは、なぜそんなに幸せなのですか。」「私の子どもがいやされたからです。」「いいえ、あなたはまだ、お子さんが癒されたのをご覧になっていませんよ。」「しかし私の主が、私の息子は助かっていると言われました。そして私は信じています。」「しかしあなたは、いずれにせよあなたのお子さんは癒されたとの確証を得ておられないではありませんか。」「いいえ、私は何の証明もいりません。ただイエスさまのおことばだけで十分です。そのおことばは真実であると知っています」。

 ここに、この役人の信仰の飛躍をみることができます。信仰が第二段階に達すると、イエスさまのことばを信じ、おことばに聞き従うようになるのです。そのときから、イエスさまのことばを信じることの幸せを経験する信仰生活が始まります。

 身分の高い役人が息子のことで心に大きな痛みを感じ悩みましたように、どんな人でも健康、家族、仕事、人間関係、信仰のことなどで悩み、心が痛み、辛いことを経験することがあります。そのようなとき与えられたみことばの約束通りにイエスさまがなしてくださると信じることができることは実に幸いな信仰です。

 私たちは長野県の上田に導かれていると信じて住まいを探し始めました。一昨年の10月下旬に家族5人で上田の不動産店を訪ねました。ところが翌年、つまり昨年の「2月中旬に来てください、転勤等の移動の時季ですから希望のマンションがあるかもしれません。それまでにご希望にそうものが出ればご連絡します。」ということでした。2月では間に合いませんので12月には古川恵子先生のお願いしご了解を得て、上田キリスト教会の住所で運送会社と契約しました。そして住まいが決まり次第変更をすることで了解を得ました。それから、4ヵ月一度も連絡はありませんでした。もし、2月に住まいが決まらなければ1ヶ月後に教会での住まいは次の牧師に引き渡しをしなければなりません。でも、不思議なことにどうなるだろうかと不安になったり、心配で眠れないというようなことはなく待つことができました。それはエレミヤ書33章3節「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう。」というみことばが与えられていたからです。目に見えるところ何も変わりがありませんが、人の見えないところで神さま事を進めてくださっているとの信仰の確信があったからです。そして、幾つかの問題も神さまがクリアさせてくださり今のところに住むことができるようになりました。1年余り住んでみて、私たちの願っていた条件が満たされていて心から神さまに感謝しています。私たちのためにお祈りくださり、具体的に捜してくださったことを後で知りました。兄弟姉妹のご愛に心から感謝いたします。このようなことを何度も何度も経験しながら信仰を深めさせていただきつつ今があります。

 ときにはしばらく時間を要することがあります。大きな問題があれが何年も待たなければならないこともありますが、必ずみことばを信じる者には素晴らしい恵みの世界があるのです。


第三 信仰によるみことばの体験

 役人が帰る途中で、しもべたちが喜びに溢れて、大急ぎで迎えに来るのに出会いました。それが51節です。「彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。」のです。「ご主人さま、あなたのお子さまは生きておられます」と告げたのです。役人は大急ぎで、熱が去ったのは何時であったかを尋ねました。よく聞くと、その息子がよくなった時刻は、主が、「行きなさい。あなたの息子は治ります」(50)と言われたのと同じ時刻であることを知りました。彼が帰宅すると自分の愛する子どもの病気が治ったのを見たのです。その子どもを抱き上げて、これがあのやつれ果て、青ざめ、病に打ちひしがれて寝ていた子であったのだと確かめました。このとき、彼はみことばの体験をしたのです。こうして、彼は、信仰の第三段階に到達しました。

 聖書は続いて叙述しています。「彼自身も家の者たちもみな信じた」(53)と。そして、彼の全家族が、彼と同じように信じたのです。ところ53節だけでなく50節にも「信じて」と書かれています。ではいったい役人はいつ何を信じたのでしょうか。ある聖書学者は「役人は最初の場合には、彼はキリストが語られたことばを信じたのです。ところが後になると彼は、キリストを自分の救い主と信じ、魂の中に受け入れたのである。」と言っています。ナザレのイエスさまを神のキリスト救い主と信じて一切の疑いのない信仰を得たのです。イエスさまのみことばを信じただけでなくイエスさまご自身を信仰の全き確信をもって信じたのです。

 新約の私たちにあてはめるなら、神のひとり子イエスが人となって地上にきてくださり、私たちの身代わりとなって死んでくださいました。その後、復活され、天に昇り、聖霊を注ぎ内に住んでくださるイエス・キリスト信じたということです。

 私の恩師の小島伊助先生のお名前を聞かれた方もあるかもしれません。先生が、「今日のクリスチャンに何をせよと先生はおっしゃいますか」と原稿を求められたことがありました。その中で「クリスチャンよ。神の恵にあますところなくあずかれ、恵みの体験者となれ」と書かれたのです。私たちも「求める信仰、約束のみことばを信じる信仰にとどまることなく、イエスさまを内にお迎えして、一切の疑いのない信仰に立って神の恵にあますところなくあずかる恵みの体験者」とならせていただきたいと思います。


 祈祷会でがんの手術のために祈ってくださっている姉妹のことです。その姉妹から7月5日に届きましたメールでこのように言っておられます。「病気になっていなかったら…ということを今まで考えたことが無かったのですが、ふと思うことがありました。病気前の頃は、子育てのこと、学費のこと、人間関係のこと、自分の趣味のことに追われ、その上雑貨、服、化粧等で自分好みのものに囲まれたくて次々に品物を購入し、それなりに満たされておりましたが、真の平安は無かったのではないかと振り返りました。

 今の病気が再発し出してから4年になります。治療に明け暮れる日々ですが(毎年手術を受けておられます)、本当に頼ることができるお方は主だけであること、本当に心満たして下さるお方も主だけであること、経済的な事も含めて必要はその時々に応じて全て主が下さる事、そして主がいつも共にいてくださり内にいてくださることを実感させて頂き、今のほうが真の平安を頂いているなあと、感謝しております。」私たちが信じている生けるキリストはこのように恵み豊かな私たちの全ての全てなるお方です。

 主は順風満帆な人生を必ずしも送らせてくださるわけではありません。この役人や姉妹のように苦しみや悲しみの中を通され、その中で主は恵み助けられるのです。それは神を抜きした、つまり神を除外しで生きることがいかに空しいかを悟らせ、自己に信頼するのではなくみことばと主に全く信頼して生きることのいかに幸いであるかを教えられるためです。

 私たちも神の恵にあますところなく与る恵みの体験者となるため、みことばを信じ、キリストに全く信頼して歩むクリスチャンとならせていただきましょう。またこの信仰を保ち続けるために大切な神との交わりのときを持ちましょう。その上で、神のため教会のために生き奉仕し、この素晴らしいキリストの福音をまだ救われていない家族、友人・知人、人々にぜひ伝えて行きましょう。


*1 ヨハネの福音書4章46~54節

4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。

4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。

4:48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」

4:49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」

4:50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。

4:51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。

4:52 そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。

4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。




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