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待ち望むクリスマス


2022年12月4日 メッセージ要約

ルカの福音書1章46~55節 *1

今日はアドベント第二です。先週はイザヤ書から「素晴らしいメシア」が語られました。イエス様のお誕生の約750年前の預言から、イエス様の御性質を語っていただきました。


今日はマリアから「待ち望む信仰」についてお話しします。

皆さんは「待つ」ことは得意ですか?私は苦手です。スーパーで買い物をしてレジに並びますと、どこが速いかと見ます。このレジの人の手が速いなと感じると隣に移ります。ところが、前の人がかごいっぱいに商品が入っていて、結局元のところの最初に並んでいたレジが速かったりしますとガッカリしてしまいます。それぐらい、私は待つことが苦手です。しかし、マリアはイエス様のお誕生を喜んで待つことができました。その記事に目を留めます。


ルカの福音書1章26節をご覧ください。御使いガブリエルが突然マリアに現れます。この瞬間からマリアのこれまでの温かな平穏無事な人生とは全く違う別の道を歩み始めます。28節~37節までお読みします。この不思議な出来事はマリアの最も近い存在である、ヨセフも両親も知りません。しかも婚約式も済みいよいよ結婚間近な状況です。普通であれば、天使の御告げに対して「ちょっと待ってください。」と言うところです。もし、これが事実だとすれば大ごとになります。婚約者ヨセフとの別れ、両親の嘆き悲しみ、あるいは結婚前の姦淫罪となり石打になるかもしれません。マリアはそのようなことを当然、考えたと思います。そして普通であれば「ちょっちょっと…待ってください。」ヨセフと両親と近所の人に説明して欲しいとねがうかもしれません。しかし、マリヤは即座に答えます。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりに、この身になりますように。」と。


マリヤはイエス様がお誕生するまで今まで経験したこともないほど、大きな試練に見舞われます。ヨセフとの結婚解消の危機、両親を悲しませること、地域の人々への偏見、あるいは石打の刑といういのちの危険。試練がいくつも重なってマリアを襲います。


このような状況でマリヤは46節~の讃美を捧げます。有名なマグニフィカ―ト呼ばれている讃美です。その第一声は「私のたましいは主をあがめ・・・」です。

46節に出てくる「あがめる」はメガリューノという「大きくする」という意味のことばです。49節にも「大きなこと」とあります。この2つは同じことばが使われています。2つとも「メガリューノ」です。Ⅰサムエル記2章の1節、ハンナの祈りが知りされています。マリヤの賛歌とよく似ています。ここでもハンナが私の心は主にあって大いに喜び・・とあります。その「大いに」です。ハンナは子どものために苦しみながら祈ります。そして、男の子が与えられます。そして、その男の子が乳離れした時に神様にお捧げし、詩います。その時の第一声の祈りが「私の心は主にあって大いに喜び・・」です。ハンナはせっかく与えられた一番可愛らしい時期のこどもを神様にお委ねしました。辛かったと思います。それでもこのように祈ることができました。

ハンナもマリアも大きな試練の中でその心には大いなる喜びがありました。ヘンリ・ナーウエンの著書「いま、ここに生きる」にこんな文章があります。「ベッドに身を横たえても、たくさんの心配事が合ってなかなか眠れない時、仕事がすべて悪い方向に行きそうに思えてならないとき、死に瀕した友人が心配でならず、どうしても自分の思いをそこから引き離すことができないとき---私は何ができるでしょうか?自分の心を神の国に置くって?それは結構。しかし、どうすればそれが可能でしょうか?・・・簡単な一つの答えは、できるだけ集中してゆっくりと祈りを唱えることによって、自分の思い煩いから、心の内の深みへと意識を移すことです。・・・もし、あなたが「主の祈り」「使徒信条」「栄光の賛歌」の祈りを暗記しているなら、そこから始めてはどうでしょうか?詩篇23篇「主は私の羊飼い」第1コリント13章にあるパウロの愛についての言葉、あるいは聖フランシスコの祈り「主よ。私を平和をつくる器としてください」を暗記してもよいでしょう。ベッドに伏した時、車を運転している時、バスを待っている時、犬を散歩させている時、こうした祈りの一つをゆっくりと心に浮かべ、その一つ、一つの言葉をなぞりながら、それが何を伝えようとしているかを、あなたの全存在でひたすら耳を傾けるのです。それでも、あなたは自分の心配事で絶えず、思いが乱されるかもしれません。しかし、その祈りの言葉に立ち帰ろうとし続けるなら、徐々に思い煩いで惑わされることが、少なくなり、祈りを楽しみ始めている自分に気づくでしょう。そして祈りが、あなたの思いのレベルから下に降りていき、自分の存在の中心にまで深く届く時、その持つ癒しの力を発見することでしょう。」

マリアはいくつもの試練に囲まれながら「わたしのたましいは主をあがめ・・」と讃美することができました。マリアはいつも、神様に祈りを捧げていたのではないでしょうか?


 ある人の証しです。「私は人からどう思われているのか?」と、人からの評価をいつも気にしていました。何か意見を聞かれても「こんなことを言ったらどう思われるか?」と心配し、人と同じ答えをしていました。ただ私はクリスチャンホームだったので、初詣に誘われても、「ちょっと行くのは難しいかも」と断り、修学旅行の神社仏閣巡りの時も、皆がお参りをしている中でごまかしつつ、避けたりしていました。神様を信じていたものの、それを人に知られて、変な奴と思われることが大きな恐れでした。そして、それは社会人になるまで変わりませんでした。社会人になってすぐに、大きな挫折と試練の中で、神様と本気で向き合うことになりました。イエス様がこんな私のために十字架に掛かってくださったことを、知識だけでなく、やっと自分のこととして受け入れることができたのです。その出来事以降、クリスチャン生活に関しては一切、人のことは気にならなくなりました。日曜日の遊びの誘いにも「私はクリスチャンで、日曜日に教会に行っているので都合が悪いです」とはっきり伝えることができるようになりました。自分の思いを口にすることや、勇気のいる決断は今も苦手ですが、それでも祈りつつ、神様の視点で歩んでいきたいと願っています。


マリアは多くの試練の中でイエス様を喜んで受け入れました。たとえ、人から裏切られ、理解されないことがあったとしても、主の主権もとにすべてがあることを信じました。そして希望を持ち、主が全てを益としてくださることを信じました。


「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために 目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな人と呼ぶでしょう。」 ルカ1:46~48


私たちも試練、誤解、を超えた大きな神様の愛を受け止めてクリスマスを待ち望みましょう。


*1 ルカの福音書 1章46~55節

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、

1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、

1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、

1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、

1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。

1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」



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