悲しみの中にある喜び
2023年2月12日 メッセージ要約
詩篇56篇1~13節 *1
先週は宇都宮教会、御茶ノ水の会議に出席しました。この間も福井先生、時子先生がご奉仕してくださり感謝いたします。上田教会に先生ご夫妻を導いて下さった神様に感謝しております。安心して出かけることができました。
宇都宮教会の礼拝、そして2日間の年会準備の教団運営委員会から
感じたことは「難しさ」です。教会を維持していくことの難しさ、さらに教団を維持していくことの難しさです。イエス様は十字架を背負われ、尊い御血潮を流されて、3日目に復活されました。この世にはない希望を私たちに与えてくださいました。こんなに素晴らしい希望を携えていながら、あるいは「死」に対する答えを持っていながら、どうして人が救われないのでしょうか?直接献身する人が起こされないのでしょうか?「難しさ」を覚えます。
私たちは新会堂に向かっています。会堂が新しくなっても、果たして本当に人が来るのだろうか?そんな一抹の不安を持ちます。私たちは、どうしたら福音を届けることができるでしょうか?その、ノウハウを私たちは知っているでしょうか?そして、まず、どうしたらこの教会に人を連れてくることができるでしょうか?今、2組の方が聖書を学んでいます。これから教会に加わってくださる方に、「こんなに素晴らしい福音があるよ」と聖書を教えていただきたいと願っています。あるいは聖書とティータイムもそうですが、学ぶことはとても大切です。学ぶことによって神様の恵み深さを理解し経験することができます。ですから、今から聖書をよく読んでください。さらに、「救われた喜び」そして試練の中にも消えない「希望」、を聖書を読みながら、また、学びながら、また、実際の経験を通して深めていただきたいと思います。この課題は新会堂と並行して取り組むべき課題です。どうか、イエス様に出会った素晴らしさをさらに深め、情熱を持ってイエス様の素晴らしさ伝えることができる上田教会でありますように祈ります。
今朝は悲しみの中にある喜びをご一緒に見ていきましょう。詩篇56篇です。題の脚注にⅠサムエル21章10,11節とあります。ダビデはサムエルにイスラエルの王として油を注がれます。それがサウロ王の妬みを買います。イスラエル中を逃げて、逃げて、逃げてとうとう逃げる場所がなくなり、ガテの王アキシュのところに逃げていきます。ガテとはペリシテの都市です。5大都市の1つがガテでした。大きな町に逃れようとします。つまり、敵国に逃げるしか生きる道がなかったのです。
そして、ガテに入るところでダビデは怪しまれます。「もしかしてイスラエルの王のダビデではないか?」と。ダビデはたまらず、気が変になったふりをしました。そしてようやく難を逃れます。その時に書かれたのが詩篇56篇です。56篇を見てください。「一日中」という言葉が3回出てきます。「一日中」とは24時間です。セブン・イレブンです。つまり、休めない。敵に追われて、落ち着けない、ゆっくりできない、ダビデの精神状態はギリギリでした。最近、経験豊富な方がある日突然、心が折れてしまって離脱してしまうことがどこの世界にもあるようです。よくよく状況を見ていきますと、長い間ギリギリの精神状態でたたかって来られたことが分かります。まさしく「一日中」です。
詩篇56篇を見てみましょう。
1節、「一日中」虐げられている。2節、「一日中」踏みつけられている。5節、「一日中」痛めつけられている。もう、これ以上は続けられない一歩手前です。
しかし、8節でダビデは神様に心を向けます。神様はこのすべての苦しみを記しておられる、さらに、涙を皮袋に蓄えてくださる。けれども、一方で、もしかすると、神様は忘れておられるだろうか?とも考えます。この詩をダビデはどのような思いで詠ったのでしょうか?
たとえ話です。旅人が砂漠を旅していて、喉が渇き、フラフラとたどり着いたオアシスに一本の水筒があります。なんと、その水筒には水が入っていました。しかもとても冷たい水です。喉を潤すには十分な量です。しかし、その水筒にはこのようなことが書かれていました。「この水を井戸に注げ、そうすれば水はあふれ出る」と。旅人は迷います。これが本当であれば、水を沢山手に入れることができる。しかし、嘘ならば・・脱水で命が尽きる。どうするか?
旅人は覚悟を決めます。水筒の水を思い切って井戸に注ぎました。しかし、2分経っても、5分経っても何の変化もない。やっぱり、うそだったか?と思い静かに目を閉じたその時、ゴボッ、ゴボッゴボッと低い音がします。と、そのとたんに井戸からたくさんの水があふれ出ました。旅人は、顔を洗い、身体を洗い、足を洗い、十分に水を飲みました。そして、最後にその水筒に書き込みをしました。「この水を井戸に注げ。そうすれば水はあふれ出る。」に続いて「これは本当だ」と付け加えました。
神様に油注がれて王に任命されたダビデ。しかし、王になるどころか、サウロに命を狙われる日々。命がいくつあっても足りません。あの、油注ぎは何だったのか?いっそう、元の羊飼いに戻ろうか。命を狙われることもない。毎日、穏やかなに暮らせる。そんなことを考えたかもしれません。しかし、ダビデは自分の水筒にある信仰の水を思い切って井戸に注ぎました。8節の最後のみことばです。「それとも、あなたの書に記されていないのですか?」といや、そんなことはない、神様は善にして善をなしたもうお方だ、と信仰の水筒の水を大きな信仰の井戸に注ぎました。
その結果が9節です。「そのとき私の敵は退きます。私が呼び求める日に。私は知っています。神が味方であることを。」これが神経験です。悲しみの中でも喜びを見出せる人とは、小さな自分の賜物、時間、信仰、忍耐、経済、を思い切って大きな井戸に入れることができる人です。すると、心からあふれるばかりの希望、喜びが湧き上がってくることを経験します。ダビデはこの後、最強のイスラエルの王となります。お祈りします。
*1 詩篇56編 1~13節
56:1 神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。
56:2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。
56:3 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
56:4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
56:6 彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、私のあとをつけています。私のいのちをねらっているように。
56:7 神よ。彼らの不法のゆえに、彼らを投げつけてください。御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください。
56:8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
56:9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。
56:10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。【主】にあって、私はみことばをほめたたえます。
56:11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
56:12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。
56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
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