慰めに満ちた神
2024年7月7日礼拝説教 Ⅱコリント1:1~11
今から47年前に私が神学校を卒業して最初に遣わされたのは信州の岡谷の教会でした。当時は今よりずっと寒く早朝の気温がマイナス10度以下の日が数日続き、昼間も気温が上がらず真冬日が続きますと諏訪湖の御神渡りが見られました。そのような光景が毎年見られた寒い時代でした。10月頃に数人の姉妹が「先生、岡谷はすごく寒いですから、冬は家にいてくださり、春暖かくなったら訪問や伝道に励んでください。私たちも一緒に励みます。」と暖かく声をかけてくださり1年目の慣れない少し不安な日々であった私たちにとっては励まされ慰められました。
ところが四国育ちの妻がクリスマス行事で忙しく疲れて風邪を引き肺炎になり約5ヵ月養生しました。母が京都から来て長期間助けてくれました。その間教会の兄弟姉妹が妻の癒しのためお祈りくださり温かく接してくださり、最初の年で慣れない私たちでしたが慰め励まされ、それ以来11年間ご奉仕することができました。それで私が80歳で引退するとき、温かい慰めと励ましがずっと心に残っていて、引退後は信州でと二人の意見が一致し主の導きの中で上田の地に住むことになったのです。皆さま温かくお受入れくださり教会生活を送ることができとても感謝しています。
ところでコリント人への手紙第一は「教会からの質問に答える」ことが中心となっていますが、第二の手紙では「苦しみ(苦難)と慰め」がテーマになっています。ある人から「苦難の深さは人生の深さである。苦難ほどいやなものはないが、苦難ほど人を深くするものはない。」と聞いたことがあります。ですから人生の深さは苦難の深さに比例するのです。
この手紙を書いたパウロは人生の達人でした。8節では「耐えられないほどの圧迫を受け」とありますが、積み荷が重すぎて船が沈んで行くさまをいうのです。もう人間の方法ではどうすることもできないような状況の中で「死を覚悟」するほどの苛酷な苦しみを通ってきたパウロでした。
しかし、そのパウロが4節で「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」と断言するのです。「どのような苦しみのときにも」と言っていますが、つまり、クリスチャンの苦しみにはそれを経験した人でなければ絶対知り得ない神の慰めがあるということです。それで、パウロは3節から5節で5度も「慰め」と語り、苦しみの中で神の慰めを体験しそこを乗り越えてきたまさに人生の達人として私たちを励ましてくれているのです。
そこで、クリスチャンの「慰め」とは何かを三つの面から考えてみたいと思います。
第一 本当の慰めは神から
本当の「慰め」はどこから来るのかということです。それは「あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神」(3)から来るのです。しかも「どのような苦しみのときにも」(4)とどのような出来事の中でも、神は慰めてくださるお方なのです。さらに「あらゆる苦しみの中にある人たち」にもです。人は病気のことやお金のことや仕事のことや自分のこと、自分の内面のことなどいろいろな苦しみがあります。一つの問題の次に問題があり、さらに問題が続くような苦しみの中ででもです。「この苦しみは、あなたにもだれにも分かってもらえない。」とか、「神に見捨てられたのではないか」というような思いになることがあります。そのようなときでも神から慰めがくるのです。
パウロは8節の後半と9節の前半で言っています。「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。」と語っています。そのような苦しみをパウロは神の慰めによって乗り越えてきたのです。
その秘訣について9節後半で「それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためです。」と言っています。パウロは決して本来強い人間ではありません。本当に自分は弱い者、駄目な者、愚かな者であることを誰よりも知っていました。その一例が7章5節から7節に出ています。それで自分に頼るのではなく、神に頼り、信頼する。自己不信頼による神への絶対信頼によって神さまより慰めが与えられることによって、神の力強い働きを経験したのです。
ある若いご夫婦の幼い男の子が病気で亡くなり、二人を悲しみのどん底に突き落としました。そんな数日を送っていましたが、日曜日の朝が来ました。とても教会に行く気分にはなれません。しかし、思い切って礼拝に出席しました。その日の説教題は「礼拝に励もう」で、中心のみことばは「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(へブル10:25)でした。礼拝は讃美から始まって説教が終わりましたが何の慰めもなく励ましも感じませんでした。ところが頌栄を歌い始めると「そうだ召された子どもは今天にあってこのとき地上の私たちに合わせて礼拝をささげているのだ、やがて天国で会うことができる」という信仰が与えられたとき、非常な慰めと励ましが与えられたのです。
イエスは最後の夜、「もう一人の助け主」(ヨハネ14:16)を送ると言われました。「助け主」は原語で「パラクレートス」と言いますが「聖霊」のことであり「慰め主」のことです。このとき聖霊なる「慰め主」が働かれ、神からの本当の慰めが与えられたのです。ですから本当の慰めは神から来るのです。
第二 慰めの及ばない領域はない
次に神の「慰め」は「どの範囲まで」通用するのかということです。それに対してパウロは「どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(4)と神の慰めが及ばない領域はないと言っています。事情が好転して万事がうまくいっていると思えるようなときに慰められていると思うようなものではなく、私の生涯は一体何だったのだろうか、どうなるのだろうかと思えるような出来事、生涯の中でも与えられる慰めです。
それは彼自身がその見本でした。パウロは11章23節から30節でどのような苦難をアジアで経験したかを語っています。「……労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたこともずっと多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、……ほかにもいろいろありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。……」と語っています。
その上、彼の肉体には、彼を悩ませる「とげ」がいつもつき刺さっていたのです。パウロはそのために主に再三懇願しました。「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。』(コリントⅡ12:9)と言われ懇願は応えられることなく「とげ」は癒されることはありませんでした。
そのような状況にあってもパウロは神が与えてくださる慰めからくる恵みによって苦しみに勝利することができたのです。それで、パウロは「どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(4)と言い切ることができました。
先輩の牧師が中学3年生の冬、骨髄炎になり学校を休むことになりました。お母さんが休学届けを持って行って帰ってきて伝えてくれたことは自分の直ぐ前の席の同級生の死でした。病床に釘づけの15歳の少年には驚きでした。そのとき人生はどっちみち死が究極の支配者かと思わされたのです。そのようなとき、手にした一冊八円の聖書を読んだのですが、心をゆさぶったのは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものはみな、永遠に決して死ぬことはありません。あなたはこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)というみことばでした。
春になり病気が少し良くなって、町には教会がなく、紹介された家庭集会に出てみました。お会いしたのは小学校のトイレ脇の小さな家に「シオン・テーラー」と掲げて、仕立て屋を営んでいるクリスチャンでした。その兄弟は昭和20年3月10日夜の江東地区大空襲でご家族を失いました。「焼けたトタンの上に家内や息子の骨を並べながら、その深い悲しみの中にも私はなお慰めが溢れていました」という真実な体験を涙声とともに聞き、こう思ったということです。「この人が持っているものが私にはない。私にほしいものがこの方にある。それはイエス・キリストである。」後日訪問し個人伝道によって救われ、牧師になられたのです。「どのような苦しみのときにも」神の慰めの及ばないところはありません。
第三 慰めは何のためか
最後に、「慰め」は何のために与えられるのかということです。それは、逃れることのできない一つの責任を私たちに負わせるためです。4節をお読みします。「それで私たちも、私たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができる」者となることです。これが重要なポイントです。私たちが苦難の中を通され神から慰めを受けるその目的は、私たちが出て行って苦しんでいる人たちの必要、特に魂の必要に応えて、同じ祝福を彼らにも分かつためです。
この世になぜ苦難があるかを解く鍵の一つがここにあります。苦しみの目的は、神からの慰めを知った人が、その苦しみを通して経験した慰めを元手にしながら、他者への愛に変えて行くことです。他者を励ます神の使者とされることです。
とても親しくさせていただいていた10歳ほど年上の先輩の牧師のことです。よく、「この本を読みなさい」と言って本を紹介してくださり、教団の仕事を一緒にしているときにも多くのことを教えてくださりそれがどれほど未熟な者の成長に役立ったかわかりません。
その奥様の先生が15年前に召されなさいました。会議で関西に出かけておられ、帰られると玄関で倒れて召されていたのです。告別式の説教は喪主の牧師自らされました。その最後のお祈りの中で「わが教会にも伴侶を既に天に送った方々が多くおられます。今まで届いていなかった牧会姿勢を主はご存知でありました。自分がこの悲しみを味わったからには、お前に期待している。少しでもいい伝道者、牧会者になれよとおっしゃったかのように思います。このように私は年老いておりますが、なすべき務めが残されていると承知しています。教会のこれからの前進のために、宣教のためにこの身を献げてまいります」と祈られたのです。そのお祈りを聞き、私は、分厚い牧会の本を読むにもまさって、牧師としてご奉仕することの深み、愛と配慮の大切さなどを教えられ、自らの未熟さを思わされました。さらに成長し、主のみ心にかなった人の心に届くご奉仕させていただきたいと、新たなスタートのときとなりました。
ある教会で牧師をしていたとき、小さいときから教会に来ていた一人っ子の男の子が中学生になった頃のことです。お父さんはクリスチャンで柔和で穏かな兄弟でした。ところがお母さんが一人っ子ゆえに大きな期待をされ、それがプレッシャーになり中学生になると反発し遅刻も多くなり、勉強しなくなったのです。そのためお父さんはとても心配されよく土曜日の夜仕事が終わってからお電話をかけてこられました。私はお話を十分に聞き、お励ましし、みことばを開いて一緒にお祈りすることが数年間続きしました。やがて高校の2年生になり、推薦入学のことを知り、それに向って勉学に励むようになりました。妻が好きなおやつを出して励まし、家より教会が落ち着くと、教会でも勉強に励ましました。大学に合格し、今は大学生のクリスチャンが集うKGKのリーダをし、教会でも青年の中心メーバーとしてよきご奉仕し、信仰生活に励んでいます。
人に労したとはとても言えないような小さな働きでしたが、私自身主の慰めを目の当たりにして慰められました。パウロはこう言っています。「私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです」(6)。パウロも深く主から慰められていたので、深く人の心に届いていけたのです。あのカルバリーのイエス・キリストの十字架がそうでした。値積ることのできない犠牲の愛の血が流されたからこそ、主は今も苦しみの中にあるすべての人の救い主であり慰め主なのです。
長い病床の苦しみのなかで救われた三浦綾子さんでした。体は全く動きません。そのような中で示されたのは、同病の方々に慰めの手紙を書くことでした。それが私の仕事であると、早速実行に移され、始められました。そして、こう言っておられるのです。「他人を慰めようとすること以上に、自分が慰められることはありません」と。
最後に4節をご一緒にお読みします。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます」。
第二コリント 1章1~11節
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
1:11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
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