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最後の晩餐


2022年7月3日 メッセージ要約

マタイの福音書 26章26~30節 *1


 今日から下半期に入ります。非常に暑い日が続いています。皆さん体調は大丈夫ですか?涼しくしてお過ごしください。

 

 礼拝後、聖餐式を行います。聖餐式とはイエス様が十字架に渡される前の夜、最後の晩餐の席において、パンを裂き、杯を取って弟子たちにお与えになったことを記念して教会で行われる礼典です。ルカの福音書22章19節にはこれを覚えて記念するようにと書いてあります。ですから私たちはイエス様が再び来られる日まで聖餐式を行っています。上田教会では、四季に1度、他の教会では毎月1回行っているところもありますが、回数に規定はありません。

 

 聖餐式は教会行事の中でも最も厳粛で大切なものです。ある、牧師は聖餐式の前日にはイエス様の十字架を一心に思い、祈りに長い時間を割きます。なぜ、このように聖餐式が重んじられるのでしょうか?


 イエス様は弟子たちと多くの食事をしてきました。有名な5000人の給食があります。その他、ザアカイの家や、マルタとマリヤの家での記事は有名です。あるいは弟子たちとの親しい食事もあったと思います。いずれにせよ、今日の記事が十字架に渡される前夜の食事、最後の晩餐となりました。


 ここで食事の最中にイエス様はパンをとり、神様をほめたたえてパンを裂きます。そして、弟子たちに与えます。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また、杯をとり、感謝の祈りをささげた後、「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」とおっしゃいます。


 つまり、パンはイエス・キリストの御身体、ぶどう酒はイエス様の血を意味しています。言い換えれば、イエス様の肉体と血液のことですが、実際にはこの後の十字架を表しています。イエス様は十字架でご自身の肉体を裂かれ、そして、血を流されました。

聖餐式は私たちの救い主イエス・キリストが私たちの罪のためにお受けになった十字架の死と御苦しみを覚える時です。


全世界の人々のため、すべての歴史上の人々の罪からの救いが十字架にあります。イエス様は十字架の御業を完成させるためにお生まれになりました。私たちは本来神様と共に生きる存在です。神様を讃美し、神様を愛し、神様に愛されて生きる存在です。しかし、人々は神様から遠く離れた存在として生きています。


この時期になりますと、小さな赤ちゃんや幼児が置き去りにされて熱中症で亡くなるというニュースを聞きます。一体何が起こったのでしょうか?置き去りにした理由は遊び回っていたということが多いと思います。この炎天下で、置き去りにされたらどのようになるか?を考えることができないのでしょう。それは、自分の欲望を満たすことで頭がいっぱいだからです。私たちはそんなことはしないかもしれません。そこまで非常識ではないかもしれません。むしろ真面目に生きています。


しかし、一番弟子のペテロは自分の命が危ないと感じれば、イエス様を平気で拒絶します。「知らない」と言います。あんなに、「どこまでも着いて行きます。」と言っていながら、自分の立場が悪くなると態度は変わってしまいます。私たちも同じようなことは沢山あります。

そして、人は信じられないと言って心を閉ざし、狭い世界に自分を置きます。一方、他方では、平気で人を利用する人間になります。人間関係が上手く構築できない結果をもたらします。


 人は難しい。さらに、自分はもっと難しい存在になります。どうしてですか?聖書はきちんとこのことに答えを持っています。その正体は「自己中心」です。本来、人は自己中心ではありませんでした。人は神様との交わりの中で、神様のために生きる存在でした。神様の愛と恵みの中で幸せに生きる存在でした。しかし、人は神様から独立する道を選択します。「神無し」の世界です。「神無し」なので、「自分中心」になります。全ての人が自己中心ですから、人間関係が上手くいくはずがありません。私たちはそういう世界に生きています。


 では、どうすればよいか?聖書は教えてくれます。「自分中心」から「神中心」の生き方に変換することです。私たちは神様から遠く離れてしまっていますから、神様に対して多くの罪を犯している存在となりました。神を信じない、神の存在を認めない、神に感謝がない、これを親子関係にあてはめたならば、親不孝もよいところです。

そのために、イエス様が十字架に掛かられました。何も悪くないお方が、悪い私たちのために十字架に掛かられたのです。何とも不思議で、理解することが難しいです。しかし、これは紛れもない事実です。


私の自己中心性のためにイエス様が十字架に掛かりました。そのことを感謝をもって受け止める時だけ、十字架の恩恵にあずかることができます。そして、私たちは「自分中心」から「神中心」になります。


「神中心」とは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という神様の心が私たちの心となります。内側に向いている自己中心ではなく、神を愛し、人を愛し、自分を愛するバランスがとれた人格が形成されていきます。


 そのための入り口が十字架です。十字架を通りクリスチャンになります。しかし、クリスチャンにも2種類あります。「自分中心」から抜け出すことができないクリスチャンと「神中心」のクリスチャンです。前者は神様に喜ばれる世界に自分を置くことはしません。自分の感情、自分の世界が全てです。日曜日に礼拝は守りますが、特に変化はありません。内向きです。しかし、「神中心」のクリスチャンは、神様が喜ばれる世界に自分を置きます。すると、必然的に神のため、他者のために生きるクリスチャンとなります。どんどんと、外に開かれて、人の重荷を積極的に追う人に変えられていきます。


私たちはどちらでしょうか?聖餐式をもってイエス様の心にさらに変えられていきたいと願います。


*1 マタイの福音書 26章26~30節

26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。

26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

 
 
 

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