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本当の礼拝をささげるために


2025年3月9日礼拝メッセージ

出エジプト20:8~11、ローマ12:1


 私が20代の前半の頃の母教会に当時70歳くらいの高齢のご夫婦がおいでになりました。この兄弟はすでに引退しておられましたが、日本で2番目に医師の資格を得られた方で、奈良県境に近い京都府南部の城陽という町から国鉄で京都駅に行き、さらに市電に乗って1時間半かけてご夫婦で礼拝に出席されていました。一番前の席にお二人は背筋を伸ばしてお座りになり30過ぎの若い牧師のメッセージを一心にお聴きになっていました。私はその敬虔な姿と接するときの謙遜で柔和な温かい態度を通して礼拝の大切さを教えられました。

 2020年1月に確認されたコロナ禍の影響で教会(礼拝等の諸集会)も大きな影響を受けました。それだけに今改めて礼拝の原点に立ち返り礼拝が形だけになることなく、なお礼拝が深められ神の御名があがめられる礼拝をささげる者とならせていただきたいと思います。 

そのため、「本当の礼拝をささげるために」と題して「安息日の意義」と「礼拝の守り方」を学びたいと思います。


Ⅰ.安息日の意義

第一に「安息日」は神が制定された日

「安息日」を誰が制定したかということです。これは「十戒」の中に示されています。出エジプト記20章8節~11節の十戒の第四戒で「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。……」と命じています。「安息日」を「聖なる日」とするように神が命令して定められたもので、人間が勝手に制定したものではありません。

旧約時代には、金曜日の日没から土曜日の日没までが「安息日」とされました。ユダヤ人は家庭で午前に神を礼拝し、祈りと瞑想のときを持ち、午後には皆が集って、ラビの説教を聞いたり、家族との交わりのときを持ちました。しかし新約の時代になってからは主イエスが日曜日に復活されたことを覚えて土曜日の「聖なる日」から日曜日の「主の日」に変わりました。ですから今は、生きておられるキリストに喜びをもってお会いする日として日曜日に礼拝をささげます。

母教会での交わりのとき、ある兄弟が礼拝に出かけようと思うと知人や親せきの人が来て、休んでしまうことがあると話されたことがありました。すると、牧師が、「『日曜日は教会に行きますので留守にしています』とはっきり言いなさい。」そして、「自分はクリスチャンで日曜日の午前中は礼拝をささげるため教会に出かけるので、会えないということを親類や知人に知られるようにしなさい。」とアドバイスしてくださいました。

神が、日曜日に礼拝をささげる「主の日」として定められたのです。ですから、まず日曜日を自分のために使う日としてではなく、神の日として聖別して教会で礼拝をささげるのです。日曜日に礼拝をささげ、兄弟姉妹と交わり、奉仕や愛のわざに励み、家族との団欒のときを持ち、体を休め、ウイークデーに備えます。


第二に「安息日」は「神の創造と祝福」とを告げる日

11節に「それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」と言われています。この世界と私たち人間は神によって「創造され、祝福された」存在なのです。ですから私たちは、決して偶然に翻弄されたり、虚しい運命や宿命にもてあそばれたり、私はもう駄目だというような絶望に閉じ込められたりする存在ではありません。私たち人間は神に愛されている者であり、全知全能と恵みをもって備えてくださった道があり、祝福された存在なのです。

福島県出身の知人の看護師の女性が東京のある大きな病院に勤めていて救われてクリスチャンになりました。帰省された際、私は「どうしてクリスチャンになったのですか。」と尋ねました。その姉妹が、「病院勤務は非常に心身共に疲れます。そのため勤務が終わり、一人になったとき、非常な孤独を感じ、また情緒不安になります。それで手相や星占いに頼ったりして一喜一憂しながら日々を過ごしていました。他にもそのような生き方をしている同僚が何人もいました。そのような孤独な空虚な生き方をしていたとき、友人に誘われ教会に行き救われて、手相や、星占いなどに頼る生活から解放され、不安なく心満たされる日々を送ることができるようになりました。」と話してくださいました。

私たちは主イエスにお出会し救われる前は神を知らずその愛と恵みと備えてくださった祝福の道を知らず、生きる意義も目的も見失って感謝のない虚無的な迷いの日々を送っていました。しかし、聖書は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と言っています。キリストにあって人生に区切りがつき新しい意味を知り、偶然や運命や宿命や諦めから解放された存在とされました。私たちは毎週の礼拝で神にお会いし愛され祝福されている者であることを確認するのです。


第三に「安息日」は恵みの契約の徴(しるし) 

出エジプト記31章16節に「イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。」と言っています。私たち人間は弱い者でから礼拝を守らないと神の恵から脱落して滅びてしまいます。

人間に対する神のみこころを具体的に示しているのは旧約ではモーセの律法であり、現代は聖書です。ところが私たちは弱い者ですから、誘惑に負けたり、判断を誤って失敗したり、偽ったり、嘘をついたり、ことばで人を傷つけたり、神のみ心を悲しめることすらあります。ところがモーセの律法であれば断罪されるのです。  

しかし新約の時代は違います。先週の祈祷会でヘブル人の手紙4章12から16節より学びました。13、15~16節をお読みします。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に申し開きをするのです。……私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、わたしたちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と言っています。

ここで主イエスは私たちの真の理解者、真の意味で私たちの弱さに同情とあわれみを示す大祭司と言われています。それで「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と呼びかけてくださっているのです。ですから祈りをとおして、また安息日に神を礼拝し、神に祈ることをとおして私たちの過去の罪を覆ってくださる神の「あわれみを受け」、きょう、そして今の必要満たしてくださる「助けを受ける」ことができるのです。それによって脱落することなく滅びることなく信仰生活を送ることができるのです。

第四は「安息日」はイエス・キリストの「復活」を記念する日

「安息日」は主の「復活」を記念する日です。旧約時代は土曜日に安息日を守っていました。それでイスラエルの民はローマ人の支配下で殺されるような目に会っても、安息日には働かず、厳格に礼拝を守りとおしました。しかし、主が日曜日に復活されてからは、「安息日」が土曜日から日曜日の「主の日」に変わりました。このことは主の復活が彼らにとっていかに重大事件であったかを物語っています。このようにして「主の日」は「主の復活を記念する日」となりました。ですから「主の日」は私たちの復活と永遠の御国の世継ぎとされたことを確認する日なのです。

パウロはコリント人への手紙15章で復活について語っています。開いてみましょう。3節から6節です。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに3日目によみがえられたこと、またケファ現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟に同時に現れました。」と言っています。

キリストの復活によって死の解決が与えられました。私の知人のTVライフラインに2度出演された小早川由紀子さんとう福音歌手の方のことです。関西ではとても良く知られた方で、昨年のクリスマスには大兼久芳則牧師がご奉仕しておられる京都伏見教会で開かれたクリスマスコンサートでも賛美されました。1980年と2010年に二度に渡って生死をさ迷うような生体肝移植手術を受けられ命をとりとめられました。滋賀県でご奉仕していた2021年のクリスマスに賛美とお証しをしてくださいました。そのとき、「天国に行ける希望のゆえに常に奪われることのない喜びと平安があります。」とおっしゃいました。そう語られたとき聖霊がお働きくださったのです。私は今そこに復活されたイエスさまがそう証しさせておられるのだという不思議な霊的恵みを経験しました。

イエスさまはマルタに、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでもいきるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25~26)と言われたように、礼拝では主が約束された私たちの復活と永遠のいのちを確認する日です。主日礼拝ごとに主のご再臨の日に、私たちは復活して栄光のからだに化えられ、想像を超えた素晴らしい天国で主と共に永遠に住むことを確認し、その希望に立つのです。

Ⅱ.礼拝の守り方

第一 この日にすべての業を休むことです。

神が天と地を造って7日目に休まれたのですから、私たちも「六日間働いて、七日目には休むこと」です。これが「安息日を聖とする」ことです。安息日の原語は「シャバス」で、「止める」ことを意味していて、ユダヤ教徒は今日もこれを厳守しています。

イエスさまはルカの福音書14章で、ある人が盛大な晩餐に人を招いたお話をされました。ところが、ずっと以前から招待されていたのに、急に、土地を買ったから、牛を買ったから、結婚したので晩餐に出席できなくなったと断ったのです。当時のユダヤでは準備された晩餐会への出席を断ることは、これ以上失礼なことはなかったのです。私たちは、大切な主日礼拝に神が招いておられるのにどのようにお応えしているでしょうか。確かに、冠婚葬祭、商売、事業、ボランティアなど生活して行く上で欠かせないことです。ところが、そのことがすべてとなり、生活のことで頭が一杯になって神のことを重んじない、横に置くというようなことにならないようにして礼拝を守りささげることが大切です。理由にならない理由で礼拝を休むことは、神さまの聖名を汚すことになり、神を侮る者となるのです。

第二 心からの礼拝をささげることです。

イエスさまサマリヤの女に言われました。今日の招きのことばであるヨハネの福音書4章24節で主イエスはサマリヤのスカルの町の女性に「神は霊であるから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と言われました。これこそ礼拝に関する基本的原理です。まことの礼拝とは、旧約時代のように、牛、羊をささげて神を拝するのではなく、また現代の教会のように、賛美をささげ、祈りをささげ、また説教を聞き、献金をささげることは大切なことですが、それだけでなく、「御霊と真理による」礼拝でなければならないと教えられたのです。

「神は霊である」というのは「神はすべてのすべてなる。生きておられるお方」という意味です。また「御霊によって」というのは「神が生きておられる方であると自覚して聖霊によって神を礼拝する」ことです。「真理によって」とは「心の中まで見通しておられるお方として真心から礼拝をささげる」という意味です

神は肉眼では見えませんが生きておられ、私たちの心の中までも見通しておられます。ですから、そのお方のみ前に立っているという自覚を持って礼拝をささげるのです。

普段私たちは「礼拝に出席する」とか「礼拝を守る」とか「礼拝をささげる」とか言います。この中で一番重みのあるのは「礼拝をささげる」ということばです。なぜなら、私たちが礼拝に出席するのは、礼拝をささげるためであり、礼拝を守るというのは、礼拝をささげることを守ることであるからです。

ローマ人への手紙12章1節に「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」礼拝では、どのような意味において「献げること」なのかということです。①礼拝は心をささげるときです。②礼拝は、ときをささげるときです。③礼拝は、財をささげるときです。④礼拝はからだをささげるときです。ですから、応答の祈り、応答の賛美、献身の表れである献金はとても大切です。

第三 礼拝は「始めである」ということです。

まず、何をおいても、礼拝は「始め」であることを自覚したいものです。なぜなら、礼拝は➀一週の始めの日に置かれています。②一週の生活の始めであるということです。「始め良ければ終わり良し」ということばがあります。物事は、始め良くて終わりの悪いこともあれば、その逆もあって、単純ではありません。けれども、スタートが大切であることは言うまでもないことです。礼拝は、まず「一週」という神の定められた区切りのスタートです。

第四 兄弟姉妹との交わりの時であるということです。

私たちは救われて、召されて主にあって文字通り霊の「兄弟姉妹」、「神の家族」とされたのです。しかし、6日間それぞれ離れて生活している私たちです。その私たちがクリスチャンとして、この日1つ所に集まって共に神に礼拝をささげ、賛美し、共に同じみことばを聴き、内なるところをみことばと聖霊によって新しくされ始める日です。

教会は「キリストのからだ」である共に「聖徒の交わり」の場なのです。ですから、礼拝だけささげるだけでなく、許される限り礼拝後に挨拶し、共に祈り、例会や愛餐会などに出席し交わることを大切にしたいと思います。それは信仰の健全な成長にも救霊の実を結ぶことにも役立つことです。

けれどもいろいろな事情で教会での礼拝に出席すること、交わることが難しい兄弟姉妹もおいでになると思います。そのような場合でも現在は家などでその場所と時間を聖別してオンラインで礼拝をささげることができるようになったことは感謝です。

先日大町の姉妹のお宅を3人の兄弟姉妹が訪問されました。とてもお喜びになられ、恵みのときであったとのこと、私たちも喜びが与えられ神さまに感謝しました。姉はご健康上の理由のため今は教会で礼拝を守れないのですが、動画を見ながら携帯で欠かさず礼拝をささげておられるということです。そして教会で礼拝をささげておられる姉と毎週SMSで礼拝で恵まれたこと教えられたことを文書でやり取りしておられ一年以上になるとのことです。その記録をスマホで見せていただきました。以前には考えられなかった方法で交わりができる時代だとつくづく思わされました。

郡山でご奉仕していたとき、主日礼拝の一時間前に教会においでになり、礼拝まで祈ってくださっていたご夫婦の兄弟姉妹がおいでになりました。かつて、郡山にあった飛行場で兵士として勤務しておられ、明日特攻隊として出撃する予定でした。その前日に一人の戦友を見送った日に終戦となり命を捨てずに済んだのです。ところが多くの戦友が死に自分だけが助かったということで、罪悪感をもたれ、死とは、人生とは、生きるとはということに迷いが生じ心の荒れた生活を送られるようになりました。家庭では気に入らないことがあると、食事中のテーブルをひっくり返すようなことも少なからずありました。ところがご自分の家で娘さんが開いておられた家庭集会で救われすっかり変わられたのです。私たちはこの兄弟姉妹にどれほど祈られ、交わりで心満たされ、奉仕の姿を通して励まされたかわかりません。何よりも自分の都合で礼拝をささげるのではなく神第一の生涯を貫かれたことです。召される二日前に病院にお見舞いに夫婦で行きました。別れて部屋を出るとき満面の笑みをたたえて手を振って送ってくださったことを忘れることができません。

私たちもご自身を惜しまずにささげてくださった主イエスの十字架の犠牲と愛によって救われ人生に解決をいただいた者です。律法的になることなく他者の礼拝の姿と比較することなく、御霊の自由のなかでそのご犠牲と愛に応えて心からなる「霊的な礼拝」(ローマ12:1口語訳)をささげ献身の生涯を送らせていただきたいと思います。


*1 出エジプト記 20:8-11

20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。

20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。

20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──

20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。


ローマ人への手紙 12:1

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

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