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私の教会を建てます


2022年8月14日 メッセージ要約

マタイの福音書16章13~20節 *1

アブラハムの旅が終わりました。アブラハムを通して「信仰」とは何かを学びました。へブル人への手紙11章13~16節、「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らがあこがれているのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神は彼らのために都を用意されたのです。」信仰とは善にして善をなしたもう神を信じて前進し、天の故郷を目指して旅をすること、と締めくくりました。


今日からテーマを大きく変えていきます。それは、「教会とは何か?」を皆さんと一緒に学んでいきます。28日には新会堂建設を始めるための、臨時教会総会が予定されています。その中で、「教会とは何か?」を問い、学びたいと思います。


朝岡勝師の「教会に生きる喜び」の中にこのように書かれています。

「主イエス・キリストは私たちを捜し求め、見つけ出し、招き入れ、迎え入れてくださいます。これらの人々はみな、誰もが父なる神に愛され、御子イエス・キリストのいのちに生かされ、聖霊の励ましと慰めの中で生かされている大切な1人1人です。主イエス・キリストが、その名を呼んで招かれた、かけがえのない1人1人です。この1人が欠けてもキリストのからだは立ち上がることができません。かしらなるキリストに結び合わされたあなたが教会であり、私が教会なのです。」と。


 アブラハムの旅では父なる神とアブラハムをとおして「神と私」の関係性を学びました。しかし、「教会」は1人ではなく、イエス・キリストの贖いを信じる人々が集まったものが「教会」です。つまり、「教会」はイエス様を信じる共同体です。「かしらなるキリストに結び合わされたあなたが教会であり、私が教会です」


 マタイの福音書16章のイエス様のおことばから「教会とは何か?」を見ていきます。13節。さて、ピリポ・カイサリアの地方での話です。ピリポ・カイサリアとはガリラヤ湖の北にある町です。ギリシャとローマの文化の影響がいたるところにあり、異教の神殿や偶像がたくさんありました。ピリポは支配者になった時、この町を再建し皇帝(カイザル)とピリポ自身の名をとってピリポ・カイサリアとしました。


ユダヤ文化の影響が薄い、異郷の地でイエス様は弟子たちに質問をされます。例えて言うならば、長野市の善光寺前でイエス様が私たちに質問をされます。それは、こんな質問です。「人々は人の子をだれだと言っていますか?」です。例えば、善光寺前で「イエス様はどんな人ですか?」とインタビューしたとします。すると、歴史の教科書で学びました、とか、世界3大宗教、キリスト教の創始者、とか、外国の宗教という答えが返ってくるのではないでしょうか?弟子たちは答えます。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の1人だとか言っています。」マタイ16:14


イエス様は今度は弟子たちに問います。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。」イエス様は「・・あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことが出来ません。・・」と。


「あなたは生ける神の子キリストです。」と発言したペテロです。聖書の注をみますと、「石」と記されています。すなわち、ペテロは石です。そして、イエス様は「この岩の上に、私の教会を建てます。・・」とおっしゃっています。


エペソ2:19~22をお読みしましす。ここにはこう記されています。エペソの人々にパウロは語ります。あなたがたは、使徒たちや預言者という土台の上に私たちは、立てられていて、とは、パウロを初めとする使徒たちや預言者の土台の上に建てられていると。しかし、要の石、基礎の基礎はキリストです。そして、キリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなります。建物の基礎がしっかりしていれば、地震にも強い建物になります。教会の基礎はイエス様です。


私が最初に感じた教会の印象は「家族的で温かい」ものでした。しかし、時と共に教会の交わりの中に身を置きますと、教会の抱えている痛み、弱さ、欠け、あるいは歪みを感じます。躓きを覚え、失望がやってきます。時として怒りを覚える時もあります。教会への信頼が大きければ大きいほど、教会の問題を目の当たりにした落胆は大きなものです。そしてその交わりから身を引いてしまうということすら起こってきます。教会を建て上げるはずが、かえって教会が崩されていく。これは実際に教会がかかえている痛みです。


教会に対して失望を覚える時、あるいは躓きを感じる時、このことを思い出しましょう。


「あなたは生ける神の子キリストです。」とのペテロの告白に対して、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とイエス様はおっしゃいました。教会は牧師の教会ではありません。あるいは皆さんの教会でもありません。それは、紛れもなく主イエス・キリストの教会です。主イエス・キリストをかしらとする「キリストのからだ」であり、キリストの尊い血によって贖いとられた「神の教会」なのです。


そして、教会はやがて終わりの時に完成する神の国を目指して、後ろのものを忘れ、神がキリスト・イエスによって上に召してお与えになる賞を目指して、ひたすらに走っている、まことに、厳かな、そして、心躍るような事実を覚える時、私たちは地上のただ中で、その重荷を負い合い、時として痛みや悲しみを感じながら「教会とは何か?」をお互いに問い続けていきたいと思います。


そして、お一人、お一人がその中で見つけた答えをお互いに共有することができたなら感謝です。


けれども教会の礎はイエス・キリストです。目に見える人あるいは、歴史、文化、地域性ではありません。教会はイエス様の教会です。

 

 「あなたは生ける神の子キリストです。」との告白の上にイエス様が「わたしの教会を建てます。」と言われます。教会の礎はイエス・キリストです。今日はこのことを覚えましょう。


*1 マタイの福音書 16章13~20節

16:13さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

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