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血によるあがない


2023年9月10日メーセージ要約

第Ⅰペテロ 1:13-25 *1

この朝開いていますペテロの手紙第一の著者は主の弟子であるペテロです。彼はこの手紙を1章1節で書いていますように現在のトルコ地方に離散していたユダヤ人と異邦人クリスチャンに宛てて書いたのです。その目的は当時、ローマでネロの大迫害が起こり、さらにその迫害がトルコ地方に住むクリスチャンにも迫っていました。そのため十字架上で流されたキリストの血によって救われたクリスチャンたちが信仰をしっかり持ち、希望に生き続けるため、励まし力づけるためにペテロはこの手紙を書いたのです。そこで、この朝は18節、19節を中心に「血によるあがない」と題してお話ししてまいります。



第一 むなしい生き方からの贖い

18節~19節をお読みします。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と言っています。

当時のユダヤ人たちは律法を守ることが神の前に正しい生き方だと教えられ、そのために非常に束縛された生活を送り、宗教生活が重荷となっていました。また異邦人たちも偶像崇拝の生活を送り、神を崇めることなく、感謝もせず、むなしい生き方をしていたのです(ローマ1:20~27)。

ところが、ペテロは離散したクリスチャンたちに対して、そのような「先祖伝来のむなしい生き方から贖い出された」のは「キリストの、尊い血による」のであると言いました。現代は物質的にとても豊かな時代です。努力すれば、またお金次第で欲しいもの、便利なものを何でも手に入れることができる時代です。でもパウロが言っているようにまことの神を知らず、したがって神を礼拝することなく、感謝のないむなしい生き方をしています。もちろん先祖から受け継いだものの中には立派なものもあるでしょうし、文化的に価値あるものもあるでしょう。しかし、それがあっても心底からの満足が得られず、人生に解決がないむなしい生き方をしています。

「むなしい生き方」というのはクリスチャンでないときに一生懸命努力をしてきたけれども、結局報われないということです。その努力というものが一応この地上では価値があり、報われるように見えますけれども、神さまの前に覚えられ報われるような生き方ではない、これがむなしいということです。ところが、クリスチャンは、この世の人たちと同じようなことをしていても、むなしい生活から贖い出されて神の前に実を結ぶ、価値ある報われる生活を送る者とされたということです。

普段、クリスチャンでないこの世の人と私たちを比べてもそんなにお互いに違わないと感じる生活をしています。でも神さまの目から見たとき、それは全然違うのだということです。クリスチャンの生き方には価値があるのです。たとえこの世の人が現実の生活でクリスチャンよりも順調で幸福のように見えても、キリストの救いのない望みのない人生はむなしい生き方です。しかし、クリスチャンは神の前に実を結び、価値ある報われる生活を送る者とされたということです。

東北郡山の教会のある兄弟のことです。戦前、郡山の航空隊に所属しておられました。特攻隊で出陣する予定の直前、終戦となり死を免れたのです。ところがほとんどの仲間が死んだのに自分は助かって生きている。国家のために死を覚悟していたのに生きているが何のために生きているか分からなくなりとても苦しまれ、荒れたむなしい日々を送っておられたのです。そのため、いつも心にむなしいものがあり同僚とよく喧嘩する、ときには自動車事故を起こす、家では家族がいつもびくびくして生活していました。食事中でもテーブルをひっくり返す、手が付けられないような生活でした。娘さんが家庭集会を開いておられ別の部屋で賛美を聴いてキリストのうちに人生の解決があるかもしれないと思われたのです。娘さんの通っておられた教会の牧師を訪ね導かれご夫婦が同時に救われ、むなしい人生から解放されたのです。生ける望み(ペテロ1:13)が与えられ喜びの生涯を送られ、会社でも家庭でも教会でも良きキリストの香り、手紙となって霊的感化を与える証しの人生を送られました(愛唱聖句は詩篇37篇15節)。


第二 尊い血による贖い

19節で「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と言っています。むなしい生き方から贖い出されたのは、「キリストの尊い血」によったと言っています。なぜキリストの十字架の血は尊いのでしょうか。

1.罪のない血だから

罪のない純潔の血だから尊いのです。「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血」とあります。イエスを調べた総督ピラトは、「私にはこの人に罪を見出せない。」(ヨハネ19:6)と言いました。万が一にも、とがめるべき罪がイエスのうちにあったとすれば、人類を贖うことは不可能でした。というのは罪人が罪人を救うことはできないからです。イエスの中に生まれながら持っている罪、原罪を見いだすことはできませんでした。イエスは33年のご生涯の中で、ただの一度も、何の過ちも犯されませんでした。イエスは、私たちと同じ肉体を持って、私たちと同じように、飢え、渇き、疲れ、悩み、悲しみ、また涙されました。また試練に遭われたこともありました。けれども聖書は「罪は犯しませんでした。」(へブル4:14)と言っています。

罪は実に恐ろしいもので、決して時間の経過とともに消えるものではありません。お金や努力や他の人への善行や難行苦行によって解決できるものでもありません。その罪の解決のため、罪のない神の御子であられるイエスが身代わりとなって苦しみと恥ずかしめの十字架におかかりくださったのです。それによって罪が赦され、むなしい生き方から贖われました。私たちはイエスの十字架の血を覚えるとき十字架は尊いと感じるのです。

2.完全な神の血だから

罪のないお方の血であったばかりでなく、これは神の血でした。パウロはミレトで決別の説教をした時、「神がご自分の血をもって買い取られて神の教会」(使徒20:28)といっています。口語訳では「神が御子の血であがないとられた神の教会」と言っています。「神は、ご自分の満ちみちたものをすべて御子に宿らせ、その十字架の血によって…」(コロサイ1:19~20)とあります。すなわち、完全無欠で神のご性質のすべてが備わっていたお方、もともと神であられ人となられたキリストの血が流されたのです。イエスが十字架上で流された血は神の血だったのです。一適、一滴の血は神の尊い血だったのです。

 「雄やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた。」(へブル9:12)とあります。旧約の時代は子羊とか山羊などによって犠牲をささげていましたが、この終りの時代にキリストが、ただ一度で全人類の贖いを成し遂げてくださったのです。旧約時代には繰り返し、繰り返し、毎日毎日犠牲をささげなければ赦されなかったのに、たった一度ですべての人の罪が赦されるようになりました。旧約の犠牲に比べてイエスの十字架の血がどれほど尊いかわかります。

3.神の愛のしるしだから

私が中学3年生の冬休み教会でストーブの薪を作る奉仕をしたことがありました。そのお礼に牧師が1955年改訳の小型の口語訳聖書をプレゼントにくださいました。それまで文語訳でしたからとても嬉しかったです。その表紙裏に「父の我を愛し給ひしごとく、我も汝らを愛したり、我が愛に居れ。」(ヨハネ傳15章9節)のみことばを書いてくださいました。長い信仰生活や奉仕のなかで孤独、悲しみ、苦しみ、悩み、困難など通ることもありましたが、神が、「愛しているよ、一緒にいるよ、恐れるな」と言ってくださり支えられ、導かれて来ました。

そして失敗したとき、お心を痛めたときも「わたしの愛にとどまりなさい。」という愛を経験できたのは十字架においてでした。私たちは時々、神は私のことを愛してくださっているのかな、こんな姿じゃ、救われて5年にもなるのに、こんな信仰の歩みじゃ、こんな毎日の生活では、神が私を愛してくださっていると思えないと感じることがあるかもしれません。神から見捨てられても当然であるという気持ちを持つこともあるかもしれません。

しかし、十字架を仰ぐとき、―もちろん悔い改めの伴うこともしばしばあります―が、神は変わることのない愛をもって、どんなときも私たちを愛してくださっていることを経験し感謝で心が一杯になります。私たちが神さまの愛が注がれていると感じるのは十字架です。だから十字架は尊いのです。

第三 十字架の贖いへの応答

ではこの十字架に対して、イエスに対してどうしたらよいのでしょうか。

その第一のことは、クリスチャンになる前のむなしい生き方に逆戻りしないことです。民数記に出ていますが、イスラエルの民がせっかくエジプトを出て来たのに、困難に遭遇したとき、「エジプトは良かった」(11:4~6)とつぶやき始めたのです。あそこでは美味しい物を食べられたし、水もあったし幸せだったとつぶやくのです。荒野の生活の中で困難に遭ったとき、あちらの生活のほうが良かったと思うようになったのです。

クリスチャンでない人たちと一緒に生活をしていると、時々、クリスチャンになって損したなとか、クリスチャンになったらこんなことをしなければいけないのかとか、クリスチャンであるがゆえのハンディ等を考えるときに、むなしい生活にちょっと心を惹かれてしまうことがないとは言えないのではないでしょうか。

そのためには、「御霊によって歩きなさい。そうすれば肉の欲望を満たすことはありません。」(ガラテヤ5:16)とありますように、十字架の血によって救われ、きよめられ聖霊に導かれる生活を送ることです。聖霊は弱い私たちを導き守ってくださいます。

次に、この十字架をいつも思い、感謝しましょう。スポルジョンの書いたある説教集の中で、キリストの十字架を覚える時に私たちはそこに憩いがあり、慰めがあり、安心感が起こると言っています。 

私は毎朝のデボーションのとき、必ず最初に十字架の賛美をします。その賛美をささげるときに、このような者を選び救ってくださったことを覚え喜びと安心感が起こってきます。生活の中で主のみ旨にかなわないことがあったり、主のお心を痛めたり、正さなければいけないこともあります。でも、十字架を見上げて悔い改めるとき、あーあこんな者でもなお愛され受け入れられ、神の御名のために生かされているのだと思うと慰めがあります。さらにともにつけられ内住の恵みにあずかっている十字架であること(ガラテヤ2:19~20)を感謝します。

第三のことは、神の愛、十字架の愛に応答しましょう。「愛は愛されることをもって満足する」ということばがあります。ある人がもし誰かを愛したならば、その愛した人は愛され返すまで満足がないのです。私たちが誰かを愛したとき、その愛した人から求めるものは何でしょうか。お金ではない、愛した人から求めるものは愛され返すことです。

神は御子を十字架にかけるほどに私たちを愛してくださいました。イエスもご自身をすべて差し出しご犠牲にするほどに私たちを愛してくださいました。もしそうであるならば、私たちがとるべき態度はなんでしょうか。この神の愛に応答していくことです。私の方から「神さまあなたを愛していきます。何よりも愛していきます」との姿勢をとることが必要です。

私のお金の使い方でも、十字架の愛を受けた者としてお金を正しく使っていきます。時間の使い方でも、十字架の愛を受けた者として使っていきます。与えられた才能も、自分自身の人生もイエスの十字架の愛のゆえに使っていきます。時間であれ、富であれ、才能であれ、自分自身の人生を神におささげしていくのです。神さまはそのような献身の生涯をお求めになっているのです(ローマ12:1)。

まだ奴隷売買が行われていた時代のことでした。奴隷市場のせり台に、白人と黒人の混血の少女が立たせられていました。そこを旅行中の白人がせり台の前を通り過ぎようとしていたとき、少女のおびえきった表情に、あわれさを覚えてその少女を高額で競り落としたのです。そして、少女に「私は、お前を買い取ったが、奴隷を必要としていない。奴隷ではなく、もうお前は自由にされたのだ。どこへでも好きなところへ行きなさい。」と言って、そのまま立ち去ろうとしたが、少女はなおその人の後について来たのです。そこで、「もうお前は自由なんだよ。どこにでも行きなさい。」と重ねて言いました。ところが、少女が「ご主人様、ご主人様のように、私のために、私を贖ってくださったお方にこそ、一生涯お仕えしたいのです。どうぞお供をさせてください」と訴えたという話です。

私たちも同じではないでしょうか!私たちを愛して、十字架にかかり、金や銀にはるかにまさる、値積ることのできないキリストの血の代価を払って私たちを贖ってくださり、むなしい生き方から解放してくださったのです。そのキリストに生涯かけてお仕えすることが私たちの応答なのです(コリント第二5:15)。

私たちは現代、不安と恐れを絶えず感じる不透明で、非常に複雑な、行き先不明な時代に生きています。しかも未来はこの世が考えるようには展開しません。そのような中で、このような応答の生涯を送ることこそがむなしい生活から解放され、神に覚えられ、私たちの人生を永遠的に意義深い価値あるものとするのです。


*1 第Ⅰペテロ 1:13-25

1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

1:14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。

1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

1:17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。

1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

1:20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。

1:21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。



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