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野の花を見て、よく考えなさい


2024年6月9日礼拝メッセージ マタイ6:28~34

 

今日は幸いな「花の日」の礼拝です。私の妻は花が大好きで私たちは遣わされた町々でその街の美しい花を見によく出かけました。上田に来てからも信州国際音楽村や坂城のバラ園には2度またカバンの藤なども見に行きました。また近くの親しくなった方の広い庭園の花やあちこちの美しい花を見に出かけています。そのようにして神さまが造られた美しい花に感嘆するとともに心がなごむ一時を持たせていただいています。

ある人が「都会は人が造り、田舎は神さまがお造りになった。」と言いました。私たちの目に見えるもの、あるいは耳を通して聞こえるものは、ますます人間の手で作られたものが多くなっています。それに比例して自然が遠ざかる時代に生きています。そのために私たちの思想も考え方も薄っぺらになっていくのがとても残念に思います。しかし自然を彩る花を見るとき、花は単に美しいだけでなく、神さまからのメッセージを私たちに届けてくれて、多くのことを教えてくれます。


第一 花は、私たちに造り主を教えてくれます。

この花は、私たちに造り主のあることを教えてくれます。花は自然に生えたのではありません。これには造り主があるのです。聖書は「はじめに神が天と地を創造された。」(創世記1:1)と言っています。神さまは、この悠久なる大自然、大宇宙、森羅万象をことごとくお造りになり、これをみな、み手の中に支えておられます。神さまは大きな太陽や月や星を造り、支えておられるだけではありません。小さな花の花弁の一ひらの中にも、緻密で用意周到な神のみわざが、織り込まれているのです。それで花はものを言わなくても、「私には造り主がある」と声高く叫んでいます。

その花には命がありますが、その証拠は香りです。一例をあげれば、私たちが道を歩いていて、風が香りを運んできますから、ああ、この垣根の中には、きんもくせいが咲いていると、木を見なくても分かります。京都にいます私の弟はかつて西陣織の問屋をしていました。その西陣織の最高級品、値段も非常に高いのですがとても綺麗です。でもいのちがなく顕微鏡で見ると、さながら荒むしろのように見えます。

私は高校1年のとき生物を学びました。あるとき、その頃としては高価なかなり倍率の高い顕微鏡で、花びらの一つを見ました。その細胞といい、その繊維の入り組んでいる有様といい、実に美しく、感嘆すると同時にこれは創造主なる神さまの造られたものだと感じました。イエスさまが「栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていませんでした。」(マタイ6:29)と言われたのは当然のことと思わされたのです。

花は私たちに無言のうちに、「私は自然に生えたのではありません。造ってくださったお方があります。」と言っています。「咲く花を歌に詠む人ほめる人花を咲かするもとを知れかし」とこれは、明治の時代の素晴らしい牧師あった奥野昌綱の歌です。

花は私たちに「私を見てほめてくれますが、こんなに白に、赤に、紫に咲かせてくださったお方がおいでになるのです。その造り主は、あなたをも造ってくださった同じ造り主でいらっしゃいます。」と言っています。創世記1章27節で「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」とあります。イエス・キリストにあって造り主である父なる神のもとに立ち帰るとき人生の意味を知り人生に解決が与えられるのです。この朝も造り主を心から讃美したいと思います。


第二 花は、私たちに清い生涯を教えてくれます。

私たちは、毎日それぞれの職場や様々な場所で、一日中人と接していますと、いやなこと、不愉快なこと、辛いことがたくさんあると思います。けれども、その不愉快で憂うつな心を抱いて、もし私たちが人家の庭や公園、郊外に出て花に接したとしますと、心がすっとして、すがすがしくなるのを覚えることがあります。これはどういうわけでしょうか。

世の中には、どうしていやなことが多くあるのでしょうか。それは造り主である神を知らない、認めない罪があるからです。人間だれしも、自分の願いどおりになって欲しいと思います。けれども、自分の願うことと隣の人が願うこととは、正反対であるかもしれません。自分に好ましいことが、隣の人に好ましくない場合もあります。そのときどうするでしょうか。他人を傷つけてまで、自分の願いを通しますか。他人を傷つければ、決して自分も気持ちがよくないでしょう。けれども、そういう場合、自分が犠牲を払って受け入れれば、他人も喜び、自分も喜びを得るのです。

砂漠のような荒野のようなこの世の中に、幸いな愛の花を咲かせるために、神さまは、この地上にイエス・キリストを送ってくださいました。イエスさまはベツレヘムからカルバリの山に至るまでの33年間、人に仕えてくださいました。イエスさまをねたんだユダヤ教の指導者たちに、辱められ、なぶりものにされ、あざけりを受けながら、十字架の死を遂げてくださいました。なぜ、イエスさまは十字架上で、血を流してくださったのでしょうか。その血によって人の罪を赦し、きよめ、聖霊に満たして、私たちを天国の生活、花園の生活を送らせるためでした。

私の先輩で若い頃飯田の教会でご奉仕されたS牧師のことばです。「クリスチャンの1メートル四方は天国である」と言われました。一人の人が救われ生まれ変わるとき、幸いな愛の花を咲かせ、家庭が変わり、職場が変わり、この世が変わるのです。

ある男性の方がイエス・キリストを信じ救われました。兄弟は大企業の人事の担当でした。救われる前は人がミスをしてこの人物はあまり会社の役に立たないと思うと辞めてもらいたという思いをもってあるポジションに着かせ、そのためにやめざるを得なくなる人があったそうです。ところが救われた今はそのように思える人でもどのようなポジションならその人を生かせるかを考えて人事をするようになったと証しされました。

時々、ゴミ捨て場のような汚いところにきれいな花が咲いていることがあります。その花を眺めて、花が汚れているなどとは誰も思いません。なぜなら、どんなに汚いゴミ捨て場のそばに咲いても、花は自分の清らかな性質にふさわしい要素だけをそこから吸収して、清らかな花をさかせるからです。私たちクリスチャンもどのような状況ににあっても、イエスさまに信仰によってつながっているとき、主の十字架の血にきよめられた心、きよめられた性質が与えられ、美しい清らかな愛に満ちた者に育っていくのです。それはこの荒野の世を喜びで満たし、砂漠の世を美しい愛の花咲くところとするためです。


第三 花は、私たちに人生の無常を教えてくれます。

イエスさまは「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」(30)と言われました。花の命は短いのです。今日は野にあって、明日は炉に投げ入れられるのが花の運命です。ペテロは「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ花は散る。」(Ⅰペテロ1:24)と言いました。古い歌に「昨日見し人はと問えば今日はなし明日また我も人に問われん」とあります。おや、昨日、あの人に道で会ったのに、はや、今日はお葬式か。けれども、それは人ごとではない、私のことがそう言われるときが来るかもしれない、と彼は言っているのです。そうかもしれません。

ユダヤの国にシャロンというところがあります。そこは春の雨期が過ぎますと、四月から五月にかけて、もう、それこそ野花が、白・赤・黄・紫、色とりどりに一斉に咲きそろい、見渡す限り、さながら花のじゅうたんかと思われるほどで、その壮観は言語に絶するそうです。ところが、五月が過ぎて六月の中旬になりますと、南の方から、砂漠を渡って熱風が吹いてきます。その風が吹き出す、わずか一日か二日の間に花はしぼみ、草は枯れ、またたくまに枯草の野原と変わってしまうそうです。本当に花の命ははかないのです。

私たちお互いの人生もそのようなものであるとの自覚をもって生きなければならないのではないでしょうか。いつ、死が私のこととなるか分かりません。このはかない人生を、花は私たちに教えてくれます。今私たちが、これさえあればと命より大事にしているもの、それはすべてはかないもので、やがて別れるときが来ます。さながら、それは流れに浮いた泡か、流れに映った月影のようなもので、実にはかないものです。この世で変わらないものがどこにあるでしょうか。私は80年余り主のあわれみのゆえに生かされてきました。そして、この世で変わらないものがなにもないことを知り、その人生は過ぎてみると束の間であったことを実感しています(詩篇90:5、6、10)。

しかし、兄弟姉妹このはかない人生にも確かな心のよりどころ、生ける希望があります。永遠から永遠まで、昨日も今日も明日もいつまでも変わることのないイエス・キリス(へブル13:8)を、私の救い主と信じることです。人は変わり、世は移りゆきますが、このお方は変わらないのです。これはなんと幸いのことでしょうか。

ピリピ人への手紙3章20~21節を開いてください。「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力のよって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」イエスさまが十字架と復活を通してなしてくださった永遠の救いと栄光のからだに変えられる望みを私たちの信仰の拠り所として歩みましょう。


第四 花は、私たちに信頼の大切さを教えてくれます。

花は、私たちに神さまへの信頼の大切さを教えてくれます。イエスさまは「なぜ着物のことで心配するのですか。働きもせず、紡ぎもしません。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。(28)と言われました。イエスさまは「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。」と言われました。「考えなさい」と言うことばは英欽定訳聖書では「シンク」(think)ではなく「コンシダー」(consider)ということばが使われています。それは「考える」だけでなく、「よく考える」「熟慮する」「じっくり考える」という意味のことばです。

ですから私たちは、花を見て「あら、ここに花が咲いているな」くらいに片付けてはいけないことを教えられます。私たちは花を見てよく考えなければなりません。花は神さまを信頼しています。

「野の花」は日を照らし、雨を降らせ、風を吹かせてくださる神さまのなされるままに、自分の運命をただみ手に一任し、何の不平も言いません。あるいは心ない人に踏みにじられるようなことがあるかもしれません。そうかと思えば、人里離れた深い山の奥でだれにも知られないうちに花を咲かせ、黙々と知らぬまに散ってゆく花もあります。しかし花たちは不平不満を言わず、ただ運ばれるままに、育てられるままに、おまかせしています。

イエスさまは、25節で「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分の命のことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありまませんか。」と言われました。この25節から34節で7回も「心配するな」(口語訳では「思い煩うな」)と私たちに言われたのは棚からぼた餅式に与えられるので「衣食住の心配は不必要である」と言うような意味で言われたのではないのです。老後のために何の備えもしなくてもいいというような意味でおっしゃったのでもありません。この高齢化社会にあって健全な老後を迎えようとするならばその備えをすることは大切です。

衣食住のことばかり考えているということは、自分の生活を支えているのは金の力であり、社会を動かすのも金の力、将来を保証するのも金の力だと考えて、この世の富にのみ固執することに問題があるのでこのように言われたのです。すなわち自分のことばかり考えているということです。他人には無関心で、自分の生活だけが豊かになること、自分の幸せだけを考えている、自己中心的な生き方を言われたのです。神を信じてお頼りして生きている者はそうであってはならないと言われたのです。

そのような人間に対してイエスさまは30節で、「今日あって明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人よ。」と言われました。神さまは人間に対して本当に空の鳥や野の花以上のことをしてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架の事実です。

聖書は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)と言っています。これは神さまが人間の命を、ご自分の大切なひとり子を十字架につけて血を流させるほど価値あるものと考えておられるということです。「世」に自分の名前を入れてみてください。それほどに神さまは私たち一人ひとりを愛してくださっているのです。世界に私一人しかいないように一人ひとりを愛してくださっています。その神さまに野の花がゆだねるように、自らをゆだね、絶対信頼していくようにと言われました。そのとき、本当の意味で「心配」から解放されます。

そこでイエスさまは最後に神さまを「絶対信頼する」ために33節で「まず神の国と神の義を求めなさい。」と言われました。その意味は神さまのみこころを知って神の望まれるように生きること。また救われて義とされた恵みを土台としながら聖霊によってきよい愛の生活を送ることです。そのように生きつつ目の前の神さまから与えられた仕事、奉仕に忠実に励むことです。「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えられて与えられます。」と約束されたのです。そのとき神さまは必要を満たしてくださいますから「心配」から解放された生活を送ることができます。

「神の国と神の義を求める」生活を実際に送るためには祈りの生活、個人的な神との交わりの生活が大切です。6節でイエスさまは「あなたがたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と約束してくださっています。そのため聖霊によって生活を律し、自分一人で神と祈るときを持つことです。それが、「神の国と神の義を求める」生き方となり「心配や思い煩い」から解放される秘訣です。

今は本当の生きる意味を失い、人生に迷い、悪の誘惑と汚れに満ちた心の冷ややか時代です。ただ快楽と物質的な目先の幸せだけを追い求め、将来に対して不透明のため不安と恐れの中にあります。それだけに私たちお互いはとても生きづらい時代の中にあって様々な状況の中を通ることも多々あります。

しかし、私たちは生きておられる神さまにあって人生に解決が与えられ、イエスさまによって救われて意味ある生活、清い愛の生活、人生の無常から救われ、死の解決が与えられ天国への生ける望みのある生活を送る者とされました。個人的な神との交わり、祈りとみことばに聞き従う生活を大切にし、心配と思い煩いから解放された生活を送りイエス・キリストのことを証しし、福音を伝えて行く者とならせていただきましょう。


マタイによる福音書 6章28~34節

6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

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