2つの証言
2023年3月26日 メッセージ要約
ルカの福音書22章54~71節 *1
4/2週から受難週に入ります。4/7は十字架の日、4/9がイースターになります。先週は久しぶりに伝道委員会・CS委員会が持たれました。「一人が一人を・・」のスローガンを掲げました。イエス様が私たち1人、1人を思い十字架を背負ってくださいました。イエス様の思いを感じながら、私たちも1人の救いを求めていきたいと願います。
この個所はペテロとイエス様の対照的な応答を見ることができます。
ペテロは「違う、知らない」と3回言い、イエス様は堂々と「・・わたしはそれです。」とはっきりとお答えになります。
ペテロは自分の保身に勝つことができませんでした。イエス様は自らの命を差し出して十字架に向かいます。重い一言をおっしゃいます。
「・・わたしはそれです」と。
マタイの福音書26:35「・・あなたを知らないなどとは決して申しません。」というペテロ、自分の姿を知らないペテロと、ルカの福音書22:32「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とペテロを励ますイエス様。先が全く見えていないペテロと全てを知りながらも愛をもってペテロを励ますイエス様。イエス様とペテロのコントラストがはっきりしてきます。
普段、平穏無事な時は、自分の本当の姿が見えません。しかし、試練にぶつかると私たちの本当の姿が見えてきます。
しかし、十字架という歴史史上最も重い試練の中でも、イエス様は変わらない真実さと愛をもって弟子たちに、そして私たちに接してくださるお方であることが分かります。ルカの福音書22:32
十字架は全て人間の恥と罪と弱さが集中する場所です。それゆえ、ペテロであっても、人は十字架の前に立ち続けることは不可能です。神であるイエス様でなければ十字架の道は通ることができない道でした。私たちはイエス様に心いっぱいの感謝をささげましょう。
先週もお話ししました。イエス様は十字架の直前に自らが手拭いを腰にまとい、弟子たちの足を一つ、一つ洗います。今週はイエス様を知らないと言ったペテロを大きな愛をもって祈り励ますイエス様と自分の姿を明らかにされたペテロの姿がコントラストのように現れます。
第2次世界大戦時のアウシュビッツでは約600万人のユダヤ人が虐殺されました。当時、一人脱走者がありました。その脱走した人の代わりに、無作為に10人が餓死室送りになりました。その中の一人に元ポーランド兵のフラウンチシェック・ガウヨチェックがいました。彼は、大きな声で懇願します。「わが子に会いたい、わが子に会わせてください」と。その時に静かに手を上げる人物がいました。「わたしを彼の代わりにしてください。自分には家族がいない。大丈夫。」と。周りには何とも言えない静寂と驚きの入り混じった空気が流れます。コルベ神父です。コルベ神父はガウヨチェックに変わり餓死室に入れらます。最後の最後まで讃美歌を歌い、祈りを捧げる穏やかさがあったと、証しされています。2週間餓死室で生き残り、注射により毒殺され天に召されます。
コルベ神父に助けられたガウヨチェックは戦後、奇跡的にアウシュビッツから出ることができました。しかし、しばらくは、あまりにも凄惨な状況に悩まされて沈黙を守っていました。しかし、自分が数少ない生存者であることが分かり、コルベ神父に助けられたことを話し始めます。そして、各地で講演を開始しました。コルベ神父を伝えるために生涯をささげます。
今日のメッセージは3つです。
① イエス様に心いっぱいの感謝をお捧げしましょう。
私たちの代わりにコルベ神父のように静かに手を上げてくださったイエス様。「わたしがそれです」と。この一言がなければ、私たちは罪から解放されず、神のいのちは与えられませんでした。
② 私たちもイエス様の側にそして、コルベ神父の側に立ちましょう。そこに感謝と喜びを見いだしましょう。不当な扱いの中で苦しんでおられる方がいますか?それは、イエス様とコルベ神父と同じです。自分の気持ちを理解されていないと感じる方がおられますか?それは、イエス様とコルベ神父と同じです。家族の中で、たった一人でクリスチャンとして証しをされている方がいますか?それはイエス様とコルベ神父と同じです。神様の働きを一生懸命にしているのに、逆に辛い思いをされている方がおられますか?それは、イエス様とコルベ神父と同じです。私たちもその中にあって、讃美をし、礼拝をしているならば、それはイエス様と全く同じ道を歩んでいる、「王道」です。
③ 私たちは正直にイエス様のように、またはコルベ神父とは程遠い者であることを「知る」ことです。あまりにも目標が高くて難しいと感じておられる方がいますか?自分の罪深さ、弱さ、限界に悲しむことがあります。自分の姿に絶望することがあります。あるいは窮屈に感じることがあるかもしれません。私たちの中にイエス様が住んでおられることを覚えましょう。エペソ書3:14~21節をお読みします。
イエス様は私たちに大きな期待を抱いています。私たちは後退するものではなく、苦しい嵐のような中にあっても、一歩でも、二歩でも前進したいと思います。私たちの内側にいてくださるイエス様に信頼しましょう。
19節には「人知をはるかに超えたキリストの愛」とあります。私たちの内に愛がなくてもいいのです。私たちの内側にいてくださるイエス様に愛があります。その愛は次元を全く超えているとパウロはこの個所で言っています。ですから、絶望する事、気落ちすることは良いことです。人知をはるかに超えたイエス様により頼むようになるからです。ペテロのように失敗する時、あるいはコルベ神父に助けられたガウヨチェックのように自分の不甲斐なさを思う時、内におられるイエス様に目を向けましょう。空っぽでいい。人知をはるかに超えたイエス様の愛に満たされましょう。
彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、私はそれです。」
*1 ルカの福音書 22章54~71節
22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
22:55 彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」
22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。
22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。
22:63 さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。
22:64 そして目隠しをして。「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたりした。
22:65 また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。
22:66 夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、
22:67 こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、
22:68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
22:69 しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
22:70 彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。
22:71 すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言った。
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